海の匂いは、嘘をつかない。
汐音はそのことを、物心ついた頃から知っていた。波が運ぶ塩の濃さ、風の体温、霧のなかに溶けた鉄錆びのような重さ——それらはすべて、この海が今どんな気分でいるかを、言葉よりも正確に告げてくる。
今夜の海は、黙っていた。
嵐が来る前の海はいつも、こんなふうに沈黙する。波音が低くなり、潮の引きが深くなり、空気が芯から硬くなる。人間で言えば、大きな息を吸い込む直前に一瞬だけ止まる呼吸のようなものだ。汐音はそれを皮膚で感じながら、燈台の外壁に背中を預けて、灰色の水平線をじっと見つめていた。
見えるのは、海と霧と、それから雲だけだ。
空に星はない。もう何年も——いや、汐音が生まれるずっと前から——星は見えなくなっていた。大気汚染対策の名目でばら撒かれた成層圏散乱剤が空を乳白色に濁らせ、その後の産業廃気が幾層もの澱みを積み上げた結果、今や空は夜になっても漆黒にはならず、ただ重たいオレンジ色に淀む。都市の光が雲に反射して、まるで世界全体が低い天井の下に押し込められているような、そんな空だ。
星を見たことがない世代が、すでに二世代続いている。
汐音は自分の手の甲を見下ろした。毎晩燈台の灯具を整備するせいで、指先はいつも機械油の匂いがする。十七年間、ここで生きてきた。海と、燈台と、それから——
「汐音」
背後から声がした。低く、乾いた声だ。
振り返ると、燈台の扉口に遙が立っていた。長年の潮風に削られた顔は地図のように皺が刻まれ、白い顎鬚には霧の水分がうっすらと宿っている。蒼井遙は七十二歳になる燈台守で、この島に唯一定住する人間で、それから——汐音の、育ての親だった。
「中に入れ。冷える」
汐音は何も言わずに頷き、腰を上げた。言葉を使う必要がないとき、彼女はたいてい喋らない。それは無愛想ではなく、ただ、無駄なことをしない性分なのだった。
燈台の内部は螺旋階段の軋みと、灯具の低い機械音に満ちている。コンソールの類は旧式で、三十年前の設計のものをだましだまし使い続けている。汐音はその機械の呼吸音を、毎晩の寝息のように聞きながら育った。どこかのリレーが一秒ずれても、冷却ファンの回転音が半音上がっても、すぐに気づく。遙はそのことを「お前は機械と話せる」と、珍しく冗談めかして言ったことがあった。
「嵐が来ます」と汐音は言った。扉を閉めながら。
「わかっとる」と遙は言った。テーブルの椅子に腰を下ろしながら。
二人の会話はいつもこんなふうだ。短く、過不足なく、それだけで済む。
汐音はストーブに火を入れ、薬缶を乗せた。遙の咳がここ数日で増えていることに、汐音は気づいていた。気づいていて、何も言わなかった。言葉にすると、それが本当になるような気がして。
——それは子供の論理だと、頭ではわかっている。
薬缶が温まるのを待つあいだ、汐音は螺旋階段の下に目をやった。この燈台は地上部分よりも地下のほうが深い。かつて物資の貯蔵庫として使われていたという地下室は、今は施錠されたまま使われていない。遙がその扉を開けるのを、汐音は一度だけ見たことがある。六年前のことだ。何かを確かめるように短い時間で扉を閉め、遙は汐音のほうを振り向いて「触るな」とだけ言った。
それ以来、汐音は触れていない。けれど——
忘れていない。
あのとき一瞬だけ見えた扉の向こうに、何か古い金属のものがあった。錆ではない。金属本来の鈍い光とは違う、どこか柔らかい色の——まるで生き物の皮膚のような、微かな発光だった。
気のせいだったかもしれない。六年前のことだから。
「汐音」
遙の声に、思考が引き戻された。
「はい」
「お前は、この島が好きか」
唐突な問いだった。遙らしくない問い方だ、と汐音は思った。彼はこういう問いかけをしない。「好きか嫌いか」という曖昧な感情の確認を、遙は普段しない。それがかえって、汐音の胸の奥に小さな棘のようなものを刺した。
少し間を置いて、汐音は答えた。
「ここしか知らないので」
「そうか」
遙は頷いて、湯のみを両手で包んだ。汐音がいつのまにか茶を淹れていたことに、今気づいたような表情だった。
「遙さん」
「なんだ」
「病院に行ってください」
今度は遙が黙る番だった。
長い沈黙の後、老人は「そのうちな」と言った。汐音はそれ以上、何も言わなかった。「そのうち」が来ない約束であることを、二人ともわかっていたから。
夜が深くなった。
汐音は定時の灯具点検を終え、燈台のいちばん上の灯室に座り込んだ。厚いガラス越しに、海が広がっている。灯りは規則正しく回転し、三秒に一度、闇の中に白い腕を差し伸べる。船乗りたちへの、ここに岩があると告げる無言の語りかけ。燈台とはつまり、声に出せないものを光に変える装置なのだと、汐音はずっと思っている。
波の音が変わってきた。
低音域が増して、複数の周波数が重なり始めている。嵐の前兆特有の音だ。ふつうの人間には聞こえないかもしれない。汐音には聞こえる。音が持つ構造を、パターンとして読み取る——それが汐音の、説明のつかない感覚だった。
遙にもらった名前だ。汐音、しおね。潮の音、と書く。
自分の本当の名前がこれかどうかは、知らない。どこから来たかも、知らない。十七年前の嵐の夜に、遙が拾い上げたのだという。海に浮かぶ小さな救命艇の中に、産着に包まれた赤ん坊がいた。それが汐音だ。それ以上のことを、遙は何も教えなかった。汐音もそれ以上、聞かなかった。
でも最近、思うことがある。
なぜ、よりにもよってこの島に流れ着いたのだろう、と。
ここは不思議な場所だ。地図に載っていない島ではないが、航路から外れており、行政区分もはっきりしない。海図には「無人島」と書いてあるものもある。実際には遙がいて、汐音がいて、燈台があるのに。まるでこの島は、世界に数えられることを、最初から望んでいないようだ。
そしてあの地下室と、あの発光。
汐音は膝を抱えて、灯りの回転を眺めた。三秒に一度。規則的な、変わらない間隔。
——変わらない、はずなのに。
今夜は、どこかが違う。
汐音は眼を細めた。灯具の光に変化はない。機械音も正常だ。ではどこから来るのか、この違和感は——
地の底から、かすかな振動が伝わってくる気がした。
建物全体を通じて、骨伝導のように。音ではなく、音の前の揺れのようなもの。汐音は手のひらを床に当てた。冷たい金属の感触。そしてたしかに——何かが、下から、届いている。
鼓動に、似ていた。
嵐が来る前の海が沈黙するように、汐音もその一瞬、息を止めた。頭の中で何かが、パズルの断片を拾い上げようとする。遙の問い。地下の扉。あの光。そして今、この振動。
それらは繋がっているのだろうか。
それとも——これも気のせいか。
嵐の最初の一陣が、燈台を揺らした。ガラスが低く唸った。汐音は手のひらを床から離して立ち上がり、灯室のなかで灯りが回転するのを、ただ見つめた。
世界が大きな息を吸い込んでいる。
嵐の前夜、燈台は歌わない。
けれど汐音には聞こえていた——何かが、歌い始めようとしている音の、その直前の、深くて長い、沈黙が。