手記の最後の頁は、見慣れた文字ではなかった。

 縦横に走る細い線の束、等間隔に刻まれた点と弧の連なり。それは遙の几帳面な筆跡とも、研究機関の書類に押される記号とも異なる、まったく別の言語体系だった。汐音がランタンを近づけると、紙の表面がかすかに光を反射した。通常の墨ではなく、何か別のものが使われているらしい。

「星語り、だ」

 透真が息を呑む声がした。

 汐音は頷かず、ただその模様を目でなぞった。渦のように巻く線、七つ数えられる点の集まり、そして中央に大きく描かれた楕円。どこかで見たことがある気がした。否、見たのではない。聴いたことがある。地下の送受信機が奏でる信号の中に、このパターンと同じ音の配列が混じっていた。

「汐音さん」

 セノの声が内側から響いた。正確には、受信機のスピーカーから出力された電子的な音声なのだが、今の汐音にはもはやそう感じられなかった。それは耳の奥、頭蓋の内側から直接言葉になる、そんな感覚を伴っていた。

「読めますか」

「読めない」と汐音は答えた。「でも、聴いたことがある」

 短い沈黙があった。受信機の赤いランプが三回、間を置いて瞬いた。

「では、お話しします」

 セノが語り始めたのは、三百年前の話だった。

   *

 大気汚染が今ほど深刻でなかった時代、星はまだ人の目に映っていた。その頃、夜空を正確に観測し続けていた人々がいた。天文学者でも、宗教家でもない。ただ特定の信号を、長い年月をかけて受け取り続けていた者たちだ。

「彼らが最初に信号を解読したのは、ちょうど三百三年前の冬至の夜だったと記録にあります」

「誰の記録?」と透真が問う。

「私の記憶の中にある記録です」

 透真は何か言おうとして、やめた。汐音は続きを促すように、わずかに体を前へ傾けた。

「信号は問いかけでした。人類はまだ存在するか、と」

 問いかけ。汐音の胸の奥で何かが動いた。宇宙の果てから、三百年前の誰かに向けられた問い。それはまるで、遠い灯台の光を頼りに航路を確かめる船乗りのようだと思った。

「彼らは答えました。存在する、と。それが契約の始まりです」

 セノの声は抑揚を持たなかったが、その分だけ言葉の重さが際立った。汐音は手記を膝の上に置き、両手を組んだ。

「契約の内容を、教えてほしい」

「大枠だけなら、話せます」

 その一言が引っかかった。大枠だけ。汐音は眉の間に力を込めたが、何も言わなかった。

 セノが語ったのは次のようなことだった。

 三百年前、人類の代表として十二人が選ばれた。国籍も専門も異なる十二人が、この島の燈台の地下に集まった。その夜、送受信機は最大出力で稼働し、宇宙の知性体からの信号が途切れなく流れ込んできた。

「宇宙の知性体、というのはどんな存在だ」

 透真が静かな声で問うた。飄々とした口調が鳴りを潜めている。

「形は持ちません。意志と情報の集積体です。私たちが星と呼ぶものの中に、思考が宿っているとお考えください」

「私たち、と言ったな。セノ、お前は——」

「続けます」

 透真の言葉を遮るように、セノは話を先へ進めた。

 契約の内容は二項からなる。一方が与え、他方が誓う。その構造は単純だった。

「宇宙の知性体は、人類に知識を与えることを約束しました。病の治し方、気候の読み方、星の場所、時間の仕組み。その知識の総体は、人類が単独で到達するのに千年を要するものだったと言われています」

「引き換えに」と汐音は言った。

「引き換えに、人類は誓いました」

 セノが一息おいた。受信機が低い唸りを上げ、床が微かに震えた。汐音には、その震えが建物の老朽化によるものではないと感じられた。

「特定の行為を、永遠にしない。それが人類の誓いです」

「特定の行為、というのは」

「それを私の口から話すことは、今はできません」

 汐音の背筋が伸びた。今は、という言い方だった。できない、ではなく。

「なぜ」

「あなたがまだ、その言葉を受け取るのに十分な場所にいないからです」

 難解な拒絶だった。透真が「それはどういう意味だ」と眉をひそめたが、セノは答えなかった。汐音はしばらく黙って考えた。場所、という言葉。物理的な場所のことではないだろう。では何か。理解の深さ? 心の準備? それとも——

「受信者としての段階?」

 今度こそ、セノは沈黙した。肯定とも否定とも取れる沈黙だったが、汐音には肯定に近いと思えた。

   *

 透真が水筒の蓋を開け、一口飲んだ。地下室の冷えた空気の中で、その動作だけが妙に現実的に見えた。

「まとめると」と彼は言った。「三百年前に人類は宇宙と契約した。知識をもらう代わりに何かをしない、と誓った。その何かが核心で、機関はその内容を知っているか、あるいは隠している」

「機関は」とセノが言った。「契約書の一部しか持っていません」

「一部?」

「契約書は三つに分けて保管されました。一つは機関に。一つは受信者の系譜に。そして一つは——」

「あなた自身に」

 汐音の声だった。自分でも驚くほど確信を持った言い方だった。透真がこちらを見た。セノはまたあの沈黙をした。

「なぜそう思いますか」

「さっき、立会人のことを言いかけた」

 汐音は手記に視線を落とした。星語りで書かれたページ。その中央の楕円が今の汐音には、ある種の署名のように見えた。

「この記号、あなたが遙さんに教えたんじゃないか」

 長い間があった。受信機のランプが再び瞬いた。今度は一回だけ。

「私の記憶は断片的です」とセノはゆっくりと言った。「自分が何者かさえ、はっきりとはわかりません。ですが——三百年前のあの夜の記憶だけは、他の何よりも鮮明に残っています」

 透真が立ち上がり、受信機の前に立った。その横顔に緊張と好奇心が混ざり合った複雑な表情が浮かんでいた。

「お前は、あの十二人の中にいたのか」

「あるいは、十三人目だったかもしれません」

 その答えは、問いを解くどころかさらに深みへ引き込むものだった。汐音は息を止めた。十三人目。人間でも星でもない何かが、あの夜の立会人として存在したとしたら。そしてそれが今、三百年の時を越えてここにいるとしたら。

「セノ」と汐音は呼んだ。

「はい」

「契約を封じようとしている人間がいる。瑠璃宮クロエという人だ」

「知っています」

「彼女は契約書の内容を知っているか」

「一部は知っているでしょう。しかし最も重要な一項は——受信者の系譜にしか伝わりません」

 汐音は手記を閉じた。表紙に遙の指紋が染みのように残っている。老人が何十年もかけて守り続けたもの。病の床に伏せても手放さなかったもの。それはただの紙の束ではなかった。

「私が受信者なら」と汐音は言った。「私はその一項を受け取ることができる」

「できます。しかし——」

「段階が必要」

「そうです」

 汐音は立ち上がった。膝が少し震えたが、気にしなかった。梯子を見上げると、天井の蓋の隙間から潮の匂いが降りてきた。外ではまだ夜が続いているだろう。星の見えない夜空の下で、波だけが休みなく岩壁を叩いている。

「次に私が聴くべき信号はどれだ」

 透真が汐音の横に並んだ。黙って肩を並べる。その重みが、今の汐音にはありがたかった。

 セノの声が答えた。それは言葉ではなく、一つの音の配列だった。送受信機から流れるその旋律を、汐音は耳ではなく皮膚で受け取った。七つの音。中央に長い一音。そして最後に、問いかけるように上がる短い音。

 どこかで聴いたことがあった。

 遙の口笛で。

燈台守の子と、声なき星たちの譜

18

契約とは何だったのか

沖野汐里

2026-05-31

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