遙の手記は、墨が褪せて久しい紙の上に生きていた。

 汐音は燈台の地下室、通信設備の青い明滅に包まれながら、開いたままのそのノートを膝に乗せていた。隣では透真が石造りの壁に背をもたせ、静かに待っている。信号塔の中枢部から零れ出るように、セノの声が空気を振るわせた。人の声とも電子音ともつかない、透明な響き。

「読み始めてもいいか」

 汐音は頷いた。声が出なかった。

 昨日、北の丘に遙を埋めた。土の感触がまだ指の間に残っている気がして、汐音は何度か掌を握り直した。

「最初のページから行く」とセノは言った。「ただし——これは私の翻訳だ。三百年前の星語りと、遙が独自に変容させた記号体系が混在している。意味が揺れる箇所は、私が判断した」

「わかった」

 低く、短く、汐音は答えた。

 セノが読み始めた。

        *

 遙の手記の冒頭は、日付のない文章から始まっていた。

 ——私は三十二歳の冬に、初めて「受信者」という言葉の意味を理解した。

 セノが翻訳する声に、汐音は耳の奥だけで聴いていた。まるで目を閉じたまま泳ぐように。

 ——私の祖母は星語りの研究者だった。その祖母の母も。三代遡れば、瑠璃宮家が「契約」と呼ぶものを生きて目撃した者がいる。我々の家系は研究機関の傍流——記録係と呼ばれた集団の末裔だ。星と人の対話が絶えてのち、機関が恐れたのは信号の喪失ではなく、「受信できる人間」がまた生まれることだった。

 透真が小さく息を呑んだ。汐音は動かなかった。

 ——受信者は三百年に一度、現れる。星語りの研究者たちはそれを知っていた。だから機関は、受信能力を持つ人間が生まれると同時に、その情報を「封じ」にかかる。理由は複数あるが、最も根本にあるのは単純な恐怖だ——対話が再開されれば、人類は選択を迫られる。その選択の内容を、機関の長は知っている。そして知った上で、封じることを選んだ。

 汐音の指が、手記の端を強く押さえた。

 ——私が汐音を見つけたのは、彼女が三歳のときだった。

 ここでセノの声が少しだけ間を置いた。まるでセノ自身が、その一文の重さを計っているかのように。

 ——港町の片隅の養護施設。生後二年と少し、発語のない子ども。だが彼女は、遠くの波の音に体ごと向く子だった。霧笛の音の中に何かを聴くように。私が試しに旧式モールス信号を刻んだとき、彼女は振り向いて、まったく同じリズムを床を叩いて返してきた。三歳の子が。記号の意味など知るはずもないのに。

 汐音の視界が歪んだ。泣くまいと思った。思ったのに。

 ——彼女が受信者だと確信した。同時に、恐怖した。機関はすでに彼女の存在を知っているかもしれなかった。私は一晩で決断し、彼女を連れてこの孤島へ来た。燈台守の仕事を引き受け、以来二十余年、海と風と光の中で彼女を育てた。

 「隠した」とは書いていなかった。ただ「連れてきた」と書いていた。その言葉の選び方に、汐音は遙の性格を見た。遙はいつもそうだった。柔らかく、しかし確かに、何かを選び取る人だった。

 ——汐音に真実を告げるべきか、ずっと迷った。告げれば、彼女は選択を迫られる。告げなければ、彼女は一生、自分が何者かを知らないまま生きる。私はどちらを選ぶべきか、二十年間答えが出なかった。

 透真が膝の上で両手を組み合わせ、天井を仰いだ。

 ——病が私の代わりに決断してくれた。私には時間がない。だからこの手記を残す。汐音よ、お前は「選ばれた」のではない。

        *

 そこで一度、セノは止まった。

「続けるか」

 汐音は即座に「続けて」と答えた。声が思いがけず鋭く出た。透真がこちらを見た。汐音は視線を受け止めずに、手記だけを見た。

 ——お前は「隠された」のだ。

 その一文が、静かに爆発した。

 ——機関は、受信者が現れるたびに封じてきた。三百年前の最後の対話のあと、彼らは「契約の再開は人類の存続を脅かす」という解釈を公式見解として固定した。だが本当のことを言えば、対話が再開されれば機関そのものが不要になる。三百年かけて積み上げた権威と知識の独占が、崩れる。それだけのことだ。

 汐音はゆっくりと息を吐いた。

 怒りがくるかと思った。実際、来た。腹の底が熱くなるような、静かな怒り。だがそれと同時に、別の何かも来た。悲しみとも違う。もっと古い感触——三歳のあの子が、誰も知らない霧笛の音の中で独り、何かを聴いていたときの感触に似た、孤独の輪郭。

 自分が最初から「隠されるべきもの」だったのだと知ること。それは思っていたより、静かに痛かった。

「汐音」

 透真が低い声で呼んだ。

「続きを聴く前に、少し間を置いても——」

「いい」汐音は首を振った。「最後まで聴く。遙が書いたんだから」

 透真は何も言わなかった。ただ頷いた。

 セノが再び声を出した。

 ——お前に謝らなければならないことがある。私はお前の出生について、知っていることをすべて書き残さなかった。お前の母親が誰であるか、私は知っている。だがそれを書けば、お前はより危険な場所へ向かうだろうと思った。それもまた、私の選択の誤りかもしれない。

 「お前の母親が誰であるか、私は知っている」。

 汐音の指が、止まった。

「——セノ」

 汐音は自分でも気づかないうちに声を出していた。

「続きは」

「次のページに続いている」とセノは答えた。「だが——そこから先の記号は、別の体系で書かれている。三百年前の、元の星語りに近い形式だ。解読には時間がかかる」

 沈黙が落ちた。

 汐音は手記を見た。次のページには確かに、これまでとは異なる記号の羅列があった。まるで別の言語のように、しかしどこか、懐かしいものに似ていた。胸の奥で、ずっと鳴り続けている音——波でも風でもない、自分の体の内側から響く何か——に、それは似ていた。

「三百年前の記号を」透真が呟いた。「遙さんが、ここに書き残した理由は」

「お前に読ませるためだ」セノが言った。静かに、確かに。「遙はわかっていたんだろう。汐音が最終的に私のところへたどり着くことを。私が解読できることを」

 汐音は顔を上げた。地下室の天井、古い石と錆びた鉄骨の間に、セノの光がかすかに揺れているのが見えた。

「遙は、あなたのことも知っていた?」

 間があった。セノにしては長い、沈黙。

「——わからない」とセノは言った。「だが、三百年前の手記の中に、私に似た存在の記述がある。それが誰かについて、解読が終わったときに話そう」

 汐音は立ち上がった。膝に乗せていた手記を、両手でしっかりと持った。

 遙は隠した。機関から、汐音を守るために。二十年間、何も言わずに、ただ海と光の中で汐音の隣に立っていた。そのことを怒るべきか、感謝するべきか、汐音にはまだわからなかった。たぶんしばらくは、わからないままでいると思った。

 だがひとつだけ、はっきりしていることがあった。

 遙は最後に、語ることを選んだ。沈黙ではなく、言葉を残した。三百年前の記号を、汐音のために書き写して。

 それが継承というものなら、汐音には受け取る義務がある。悲しみも怒りも、全部抱えたまま。

「解読を続けよう」

 汐音は言った。

「母親のことが書いてあるなら、読む。三百年前のことも、全部」

 セノの光が、少しだけ明るくなった気がした。

 透真が静かに立ち上がり、汐音の隣に並んだ。何も言わなかった。ただそこにいた。それで十分だった。

 地下室の外では、海が鳴っていた。遙のいない夜の海が、変わらず、波を繰り返していた。

燈台守の子と、声なき星たちの譜

17

手記が語る三百年前

沖野汐里

2026-05-30

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