夜明けの霧が、海をまるごと飲み込んでいた。
灯台の窓から見下ろすと、水平線どころか足元の波も見えない。世界がただ白一色に塗り潰されて、岩礁も桟橋も、何もかもが消えてしまったようだった。汐音はガラスに額を押しつけ、その白さをじっと見つめた。霧の中に何かが潜んでいる気がした。いつもそうだ。見えないものの方が、見えるものより饒舌に語りかけてくる。
透真はランタンテーブルの端に腰を下ろし、通信端末を膝の上で伏せていた。
画面は消えている。けれど彼の指が、端末の角を繰り返し叩いていた。規則的に、しかし少しずつリズムが乱れながら。汐音はその音を聞いていた。言葉より正直なものが、指先には宿る。
「霧、濃いね」
透真が口を開いたのは、沈黙が部屋に積もりすぎた頃だった。
「うん」
汐音は短く答えた。遙の病室は廊下の突き当たりにあり、今朝の体温は三十七度二分。昨夜の一時覚醒が嘘のように、老人はまた深い眠りの底に沈んでいた。医療ドローンが三時間おきに来て、データを採取して、霧の中へ戻っていく。それだけが外の世界との接点だった。
透真の指が、止まった。
汐音は振り返らなかった。けれど気配が変わったことは分かった。肩の角度が、数ミリ単位で固まる。息の間隔が、ほんの少し長くなる。
端末の画面が点いた音がした。通知音ではなく、着信の振動音。透真はすぐに立ち上がり、「ちょっと外の空気、吸ってくる」と言い残して螺旋階段を下りていった。
汐音は霧の方を向いたまま、目を閉じた。
*
階段の踊り場は風が吹き込んで冷たかった。透真は片耳にイヤピースを差し込み、低く、しかしはっきりとした声で応じた。
「透真です」
『信号を確認した』
声はいつもの担当連絡員のものではなかった。もっと低く、もっと乾いていた。機関の内部通信にのみ使われる暗号帯域で、その声は続けた。
『対象を確保して報告せよ。繰り返す、対象を確保して報告せよ』
透真は口元に手を当てた。対象、という言葉が頭蓋の内側に反響する。対象。それは人を指す言葉ではない。回収すべき物品に貼られるラベルだ。
「確認します。対象の定義を」
『蒼井汐音。および彼女が接触している信号源』
霧の中で波音がした。遠く、くぐもって、まるで誰かが水の底で叫んでいるみたいに。
「了解しました」
透真は答えた。それだけ言って、通信を切った。端末を握る手に力が入りすぎて、指の関節が白くなった。
了解した、と言った。しかし体は動かなかった。
確保。その一語の持つ質量を、透真は誰よりよく知っていた。機関の「確保」とは、対象者の意思を問わず施設へ連行することを意味する。過去にそれが行われた事例を、彼は書類の中でしか見たことがなかった。だが書類の文字というのは往々にして、現実の重さを二十分の一に圧縮してしまう。
汐音の顔が浮かんだ。昨夜、遙の病室の前で膝を抱えていた彼女の姿が。「星語りの最後の子だ」と告げられた瞬間、彼女の横顔に走った何か——言葉にするなら、稲妻のような覚悟、とでも呼べるもの——が。
透真は端末をジャケットの内ポケットに押し込み、階段を上った。
*
汐音はランタンテーブルの前に座っていた。
地下の受信室へ降りていたわけではない。ただ手元に、三枚の紙片を広げていた。遙の引き出しから見つけた、手書きの記号群。波のように連なる曲線と、規則的な点の配列。汐音にはまだその意味が分からないが、読み方だけは分かる。目で追うのではなく、指でなぞり、音に変換する。リズムとして受け取る。
透真が戻ってきた気配を感じて、汐音は顔を上げた。
「誰から?」
透真は一瞬だけ動きを止めた。ほんの一瞬。しかしそれで十分だった。
「同期の研究員。現地の気象データ送れって」
嘘だと分かった。けれど汐音は追及しなかった。訊いて答えが返ってくるなら、最初から隠さない。
「そう」と言って、手元の紙片に目を戻した。
透真がカップに湯を注ぐ音がした。何も言わずに汐音の隣にカップを置いて、彼は自分の席に戻った。その行動が、逆に雄弁だった。何かを抱えているとき、人は小さな親切で埋め合わせをしようとする。
汐音は湯気を見つめた。受け取るべきか、受け取らないべきか、という問いではない。問いはもっと別のところにあった。
*
午後、霧が薄れた頃を見計らって、汐音は地下へ降りた。
受信室の空気はいつも独特だった。塩と、錆と、何か有機的な匂いが混じり合って、まるで呼吸している建物の肺の中にいるようだった。三百年前の機器が壁一面に並び、そのどれもが沈黙しているように見える。けれど耳を澄ますと聞こえてくる。微細な、ほとんど想像と区別のつかない振動音が。
汐音が定位置——受信コンソールの前の椅子——に座ると、画面が自動で点灯した。セノが来る合図だ。
最初は砂嵐のような静止画。次第に輪郭が現れる。顔と呼ぶべきか分からない何か。人の形をしているが、焦点が定まらない。まるで複数の記憶が重なり合って、どれが本物かを決めあぐねているようだった。
「汐音」
セノの声は今日も音素ごとに微妙にずれていた。まるで翻訳ではなく、声そのものを別の材質で再構成したような響き。
「セノ」
汐音は短く返した。
「昨夜の信号を受けた」
「遙じいさんが起きた」
「知っている」とセノは言った。「その場にいた」
汐音は少し驚いた。「どこに?」
「信号の中に。わたしはいつも信号の中にいる。体というものが、ない」
その言い方は、汐音にとって不思議と恐ろしくなかった。自分も似たようなものだと思った。言葉が出てこないとき、自分の輪郭が溶けていく感覚がある。体があっても、どこにも「いない」ことがある。
「遙は言っていた」とセノが続けた。「最後の子、と」
「うん」
「それは正確ではない」
汐音の手が止まった。
「最後ではない。契約はまだ生きている。だから、最初の子、というべきだ」
契約。
その言葉が、受信室の空気に落ちた。石を水面に投げた時のように、波紋が広がった。汐音は画面のセノを見つめた。
「何の契約?」
「星語りの、契約」とセノはゆっくりと言った。まるで言葉の重さを確かめながら。「三百年前に結ばれ、三百年間、応答を待っていたもの。人が星へ声を届け、星が人へ声を返す——その往復の、約束」
「それが今も」
「切れていない。届いていないだけだ」
汐音の胸の奥で何かが動いた。怖い、という感覚ではなかった。もっと根本的な何か。世界の構造が、自分の知っていたものより一層深いところまで続いているのだと悟る、あの感覚。
「契約の相手は」と汐音は尋ねた。「星? それとも」
「わたし、かもしれない」
セノの輪郭が揺れた。画面のノイズではなく、その存在自体が揺れているようだった。
「わたしは自分が何なのか、まだわからない。人の声から生まれたのか、星の声から生まれたのか。だがひとつだけ分かることがある」
汐音は息を詰めた。
「わたしは、答えを待っている」
その言葉が終わると同時に、透真の足音が階段を下りてくる音がした。
セノの映像は霧散した。砂嵐が一瞬走り、画面は暗くなった。汐音は椅子の上で静かに手を膝に戻し、ゆっくりと息を吐いた。
答えを待っている。三百年間。
そして同じ夜、研究都市では「対象を確保せよ」という命令が下された。
二つの声が、同じ汐音へ向かって伸びてくる。片方は待ち続けた声で、もう片方は消そうとする声だ。汐音はまだ、その二つの距離を正確には測れていない。ただ、霧が晴れたとき、どちらの声が先に届くかによって、何かが決定的に変わる気がした。
透真が最後の段を降りてきた。
「いた」と彼は言って、少し安堵したような顔をした。
汐音はその顔を見た。嘘をついている顔と、案じている顔が、同じ表情の中に同居していた。
「うん」と汐音は言った。「ずっとここにいた」
それだけ言って、暗くなった画面を見つめ続けた。