潮の匂いがする、と汐音は思った。

 病室にいるのに。消毒薬と乾いた空気が充満しているはずのこの場所で、なぜか潮の匂いがする。錯覚だとわかっていても、鼻の奥がそう言い張るのをやめてくれない。燈台のそばで育った体が、ここではない場所を求めているのだろうか。

 蒼井遙が横たわるベッドの脇に、汐音は椅子を引き寄せて座っていた。老人の呼吸は昨日よりも浅く、胸の動きは波のない海面みたいに静かだった。モニターが規則的な音を刻んでいる。その一定のリズムだけが、ここに時間が存在している証だった。

 窓の外は曇りだった。この島では、いつも曇りだ。かつては星が見えたのだと遙は言っていた。子供の頃の話として、たった一度だけ。汐音にはその記憶がない。生まれたときからすでに、空は重く閉じていた。

 扉の近くで透真が壁に背を預けている。腕を組んで、目を閉じているようにも見える。ここへ来てから一時間、ほとんど何も言わなかった。いつもの軽口がない分だけ、その沈黙は部屋の空気を余計に重たくした。

 汐音は遙の手を握ったままでいた。ごつごつと節くれだった指。長年風雨にさらされた肌の質感。この手に何度引かれただろう、と思う。幼い頃、燈台の螺旋階段を上るとき。嵐の夜、光を守るために駆け上がるとき。ずっと前を歩いていたこの手が、今は動かない。

 だから、それが起きたとき、汐音はほとんど驚けなかった。

 指が、動いた。

 ゆっくりと、汐音の手を握り返すように。

「  」

 かすれた声が、唇から漏れた。音になりきれないような息の塊だった。汐音は体を乗り出し、耳を近づけた。

「遙さん」

 老人の目がわずかに開いた。白く濁った目が天井を見上げ、それからゆっくりと汐音のほうへ向いた。焦点が合うのに少し時間がかかった。まるで遠い場所から帰ってくるみたいに。

「 汐音」

 声だった。確かに声だった。

「ここにいます」と汐音は言った。声が震えないように注意しながら。

 遙は何度か瞬きをした。視線が定まっていく。汐音の顔を、まるで久しぶりに見るかのようにじっと見つめた。その目に何かが浮かんでいた。哀しみとも安堵ともつかない、言葉にならない何か。

「痛くないですか。水、飲みますか」

 老人は首を横に振った。かすかに、しかしはっきりと。

 そして口を開いた。

「お前は」

 また息が途切れた。汐音は待った。急かさなかった。この人はずっとそうだった。言葉を急がせると、大切なものが零れ落ちる。それを子供の頃に学んでいた。

「お前は、星語りの」

 また、止まる。

 汐音の胸の奥で何かが緊張した。心臓ではなく、もっと深いところで。昨日地下でセノと交わした光の会話が、皮膚の裏側から滲み出てくるようだった。

「……最後の、子だ」

 言葉が落ちた。

 部屋の空気が変わった、と汐音は感じた。物理的に変わったわけではない。モニターは同じ音を刻み続けている。しかし何かが違った。見えない重力が傾いたような。

「星語りの、最後の子」

 汐音は繰り返した。確認するのではなく、その言葉を自分の中に落とし込もうとして。

 遙はまた目を閉じた。「そうだ」と言ったのか、ただ息を吐いたのか、汐音にはわからなかった。それだけだった。それだけが、精一杯だったのだろう。老人の体から力が抜けていき、握り返していた指が再びゆるんだ。呼吸は続いている。眠っている。深く、遠い場所へ。

 汐音はしばらくそのまま動けなかった。

 星語りの最後の子。

 その言葉は、説明をしなかった。意味の輪郭だけを置いていった。養父が今の今まで黙っていたこと。「養女」という事実の裏に、別の事実が重なっていること。汐音は自分の手のひらを見た。普通の手だった。何も光らない、何も鳴らない、ただの十七歳の手。

 でも、地下では違った。

 光の符号を読んだとき、体の奥で何かが共鳴していた。それを感覚と呼ぶには鮮明すぎた。まるで知っていたみたいに。最初から知っていたかのように、パターンが解けた。

 壁際から、透真の息を吸う音がした。

 汐音は顔を上げた。透真は目を開けていた。腕を組んだまま、視線をモニターのあたりに固定して、しかし何も見ていない目をしていた。汐音にはわかった。この人は今、全力で何かと戦っている。

「聞こえてたよね」と汐音は言った。

 透真は答えなかった。

「透真さん」

「……聞こえてた」

 それだけ言った。それ以上は言わなかった。

 汐音は彼の顔を見続けた。透真は視線を合わせようとしない。それが答えだった。この人が今何を考えているか、汐音にはおおよその見当がついた。調査員として、組織から派遣されたこの人には、おそらく報告の義務がある。重要な情報を得たとき、機関に伝えなければならない何らかの取り決めが。

「報告しなきゃいけないの」

 聞き方は疑問文だったが、汐音の声には責める色がなかった。ただ確認していた。

 透真がようやく汐音のほうを向いた。その顔には珍しく、飄々とした仮面がなかった。剥き出しではないが、薄い。疲れているか、あるいは何かに迷っているか。

「規定上は、そうなる」と透真は言った。「星語りの継承者が現存している可能性、っていうのは、報告すべき案件に入る。クロエさんに。今日中に」

「そう」

「でも」

 透真は言葉を切った。病室の空調が静かに唸った。

「でも、俺が今聞いたのは、病床の老人が意識が朦朧としたまま言った、意味のよくわからない一言だ。証拠も、文脈も、なんもない。うわごとかもしれない。そういう解釈も、できる」

 汐音は黙って聞いていた。

「問題は」と透真は続けた。「俺がそう解釈したいのか、本当にそう思うのか、自分でもわからないってことだ」

 正直な言葉だった。汐音は少し意外だった。透真という人はいつも、本音を軽い言葉で包んでから出してくる。今はそれがなかった。

「わからないまま、どうするの」

「わからないまま、今夜は何もしない」と透真は言った。「それが答えかどうかも、わからないけど」

 沈黙が落ちた。

 遙の呼吸だけが続いている。規則的に、細く。この人がいったい何を知っていて、何を黙っていたのか。星語りの最後の子、という言葉が、汐音の意識の底に沈んで溶けずにいた。

 最後の子、とは何を意味するのか。

 血のことを言っているのか。それとも別の何か、もっと別の意味での「子」なのか。

 地下でセノは言った。三百年間、誰も来なかった、と。そして汐音の光の言葉を、まるで知っていた言語を聞くように受け取った。どこかで誰かが教えてくれたわけでもないのに、汐音にはあの符号が読めた。

 偶然ではない、と今は思っている。

 でも偶然でないなら、それは何なのか。

 汐音は再び遙の手を握った。答えてくれない手を。半分だけ話して、また深い眠りに落ちた人の手を。恨みはなかった。ただ、もどかしかった。もう少しだけ、もう少しだけ続きを、と思う気持ちが、喉のあたりに詰まっていた。

「汐音」と透真が言った。

 顔を上げると、透真は窓のほうを見ていた。曇った空を。星のない、厚い雲の蓋を。

「俺が機関に入ったのはさ、星語りを封じたいからじゃなかった」

 独り言のような声だった。

「知りたかったんだ。三百年前に何があったのか。どうして途切れたのか。それだけ知りたくて、一番近い場所に入った。でも近くに行くほど、見えなくなるものがある」

 汐音は何も言わなかった。

「お前の老人が言ったこと」と透真は続けた。「今夜だけは、俺だけの胸に入れておく。明日どうするかは、明日考える」

 それは約束とも宣言とも取れる言葉だった。汐音には透真が何かを賭けていることがわかった。軽口で包みもせずに。

 窓の外で、風が唸った。

 海の匂いがした、と汐音はまた思った。

 遙は眠り続けている。告白の半分だけを残して。残りの半分がどこにあるのか、汐音にはまだわからない。でも確かに、扉が開いた音がした。音もなく、光もなく、ただ空気が動いたような、そんな静かな開き方で。

燈台守の子と、声なき星たちの譜

10

病床の告白、半分だけ

沖野汐里

2026-05-23

前の話
第10話 病床の告白、半分だけ - 燈台守の子と、声なき星たちの譜 | 福神漬出版