夜が深い。
街の灯りは遠く、三人が身を寄せ合う廃倉庫の隙間からは、欠けた夜空だけが見えていた。かつてならばそこに幾つもの星座が瞬いていたはずの一角が、今はただ黒々とした沈黙を湛えている。蒼汰はその暗がりを仰ぎながら、星が消えるということは人の記憶が消えるということだと、改めて腹の底で思った。抽象的な理解ではなく、皮膚の奥に刻まれるような感触として。
「動けるか」
縹が低く問うた。声に感情はなかった。けれど蒼汰には、その平坦さの裏側に疲弊が透けて見えた。倉庫を荒らされ、長年の腹心に裏切られた男の疲弊が。
「動ける」と蒼汰は答えた。
零花は黙って頷いた。彼女の瞳はどこか遠くを見ていた。先ほどの記憶の閃光で他者の感情の残滓を拾ってしまったのかもしれない。星座商会の男たちの、あの剥き出しの欲望を。
「縹さん」と零花が静かに口を開いた。「星座商会について、あなたはどこまで知っているの」
縹は即答しなかった。外套の内側から薄い革表紙の手帳を取り出し、指先でぱらぱらと捲った。書き付けられた文字は細かく、蒼汰の位置からは読めない。
「知っているつもりだった」と縹はやがて言った。「記憶を買い漁る組織がある、と。ギルドの管理から零れ落ちた記憶の欠片を回収し、何かに利用しようとしている、と。それだけだ。……ヴァルが奴らに接触していたのなら、俺の知らない深さがある」
蒼汰は地図師ギルドの見習いとして、星座商会の名前を数度耳にしたことがあった。非合法の記憶取引を行う組織、という程度の認識だった。しかし先ほどの男たちは、蒼汰の白紙記憶を知っていた。ギルド内の情報にアクセスできる者でなければ知り得ないことを。
「ギルドが漏らしたんだ」と蒼汰は言葉にした。「俺の記憶のことを」
三人の間に沈黙が落ちた。それは否定できない沈黙だった。
*
翌朝、縹は単独で動いた。
蒼汰と零花に行き先を告げなかったことは帰還後に判明したが、縹はそれを詫びなかった。ただ、古びた封筒を卓上に置いた。
「星座商会の倉庫の一つに、知り合いの鍵師が出入りしていた。一晩でそれだけ辿れた」
封筒の中身は数枚の複写文書だった。蒼汰は零花と並んでそれを覗き込んだ。細かい行政文書の体裁を持つそれは、一見すると何の変哲もない倉庫の賃貸記録に見えた。しかし蒼汰は地図師の見習いとして書類の精読を叩き込まれている。
「署名が……」
欄外の承認印に、蒼汰は見覚えがあった。
「ギルドの書式だ」と彼は言った。声が微かに揺れた。「それも、上層部の。この印は審議官以上しか持てない」
縹は静かに次の紙を捲った。
そこには「夜図界再編草案・第七稿」という表題があった。
蒼汰の呼吸が、一拍止まった。
文書の冒頭には、現在の夜空システムが「老朽化した三百年前の設計に依存しており、近いうちに崩壊する」と書かれていた。崩壊の代わりに、新たな管理体制のもとで夜空を「再編」するという構想。既存の星座を段階的に消去し、新規の記憶で再構成する計画。
そして文書の末尾に記された名前を、蒼汰は見た。
天弦。
「……天弦老師」
口に出すと、文字が胃の底に沈んでいくような感覚があった。否定したかった。誤読だと思いたかった。しかし文字は揺れなかった。
「知っていたのか」と縹が問う。感情のない声で。
「知らなかった」と蒼汰は答えた。「でも」
でも、と心の中で繰り返した。天弦老師は夜空の異変を誰よりも早く知りながら沈黙していたと、縹から聞いたことがある。あの穏やかな老人が何かを隠していることは、蒼汰も薄々感じていた。感じていながら、正面から見ないようにしていた。
師匠だから。
教えてもらったことがあるから。
それだけの理由で、疑うことを恐れていた自分が、今ここにいる。
「零花」と蒼汰は言った。「おまえは何か感じるか」
零花は文書に手をかざしていた。彼女の力は言語ではなく感情の残滓を読むものだ。書き手の感情が、紙の繊維に染み込んでいることがある。
やがて零花は手を引いた。表情は複雑に歪んでいた。
「恐怖」と彼女は言った。「それと……焦り。でも、悪意ではない」
「悪意がなければ許されるのか」と縹が呟いた。声は静かで、しかし冷たかった。「善意で人の記憶を消すことが、どれほど残酷か」
蒼汰には返す言葉がなかった。
*
「夜図界再編草案」を更に読み解くにつれ、星座商会の輪郭が浮かび上がってきた。
組織は単なる記憶の密売人ではなかった。ギルド上層部の一部と連携し、夜空の「再編」に向けて既存の星座データを収集していた。消えていく星座は自然崩壊ではなく、段階的に回収されていたのだ。記憶を人工的に剥ぎ取り、新しい設計図のために。
「三百年前のシステムが崩壊するというのは本当なのか」と蒼汰は問うた。
「文書が正しければ、な」と縹は答えた。「だが崩壊するとしても、こんな手段が正当化されるか。記憶は持ち主の一部だ。同意なく消すことは殺すことと変わらない」
蒼汰は天弦老師の顔を思い浮かべた。あの皺深い顔に、何かを恐れる表情を重ねようとして、しかし上手く像が結ばなかった。知っているはずの顔が、急に遠くなったような気がした。
「老師に直接聞くべきだ」と蒼汰は言った。
「その前に」と縹が遮った。「この文書には続きがある」
縹が最後の一枚を卓上に滑らせた。それは他の書類と異なり、手書きだった。筆跡は荒れていた。誰かが急いで書いたような字で、こう記されていた。
『鍵は白紙の地図師にある。彼の記憶が開かれれば、再編は不要になる。しかし彼が鍵であることを彼自身に悟らせてはならない。なぜなら——』
そこで文章は途切れていた。ちぎられたように。
蒼汰は自分の手のひらを見た。地図を描くための手。白紙の地図師。それが自分のことだと、もはや疑う余地がなかった。
「俺の記憶が、夜空の鍵になっている」
声に出すと、現実の輪郭がはっきりした。はっきりしたことで、かえって足元が揺れた。自分の空白が世界に繋がっている。幼少期の記憶がなぜ白紙なのかという疑問は、ずっと個人的な傷だと思っていた。しかしそれは最初から、もっと大きな何かの一部だったのかもしれない。
「悟らせてはならない」と零花が繰り返した。静かな、しかし鋭い声で。「天弦老師が隠し続けていたのは、このためだったの?」
誰も答えなかった。
窓の外、傾いた朝の光の中を、一羽の鳥が横切った。白と灰の羽を持つ、霞鳥だった。蒼汰の視線に気付いたように、霞鳥は窓枠に止まった。
「教えを乞うな」と霞鳥は言った。「師は地図を描いた。しかし地図は現実ではない」
「どういう意味だ」
「師が描いたのは、あるべき夜空の地図だ。おまえに見せなかった地図が、もう一枚ある」
それだけ言うと霞鳥は飛び立った。
蒼汰は立ち上がった。倉庫の薄暗い空気の中で、疑惑は確信に変わっていた。確信は怒りに変わりつつあった。しかしその怒りはまだ、どこに向ければいいのかわからなかった。
天弦老師が善意であったとしても。
善意で誰かの記憶を、誰かの存在を、消そうとしたとしても。
それは許されるのか。
「ギルドに行く」と蒼汰は言った。「老師に会う」
縹と零花は何も言わなかった。しかし二人とも、立ち上がった。