夜が、割れた。

 縹の倉庫に踏み込んだとき、蒼汰が最初に感じたのはその印象だった。いつも薄暗く整然としていた石造りの空間に、散乱した木箱と、砕けた記憶の欠片が降り積もっていた。欠片はそれぞれ淡く光を帯び、誰かの笑い声や、泣き声や、子どもが初めて歩いた瞬間の震えを、静かに床へ零し続けていた。踏めば消える。拾えば燃える。どちらにせよ、記憶は今夜ここで死んでいた。

「縹さん」

 零花が声をかけると、部屋の奥に立っていた人影がゆっくりと振り返った。縹の顔は、蒼汰が初めて見るほど白く強張っていた。整えられた髪が乱れ、いつも冷ややかな眼差しに、どす黒い何かが揺れている。怒りとも悲嘆とも区別のつかない、底のない色だった。

「来るな」

 低く絞り出された声は、しかし命令というより懇願に聞こえた。蒼汰は構わず前に進んだ。

「何があったんですか」

「……ヴァルが、売った」

 縹は短く言った。ヴァル、というのは縹の腹心だった男の名だ。蒼汰も何度か顔を合わせたことがある。無口で誠実そうな、三十過ぎの男。縹がこの闇市の世界に入ったとき、最初からそばにいたと聞いていた。

「うちが集めた記憶の三割が、星座商会に流れていた。半年かけて、少しずつ」

 縹の指が、砕けた木箱の縁を掴んだ。ぎし、と軋む音がした。

「星座商会」と蒼汰は繰り返した。聞いたことのない名だった。「それは……」

「闇市の上にある。表の顔は記憶の保護団体。裏では記憶を商品として組織的に流通させている。わたしが知るかぎり、最も大きな記憶売買の組織だ」

 零花が小さく息を飲む音が聞こえた。蒼汰も言葉を失った。縹が束ねる闇市が、さらに別の誰かの傘の下にあったということか。それとも、知らぬうちに組み込まれていたということか。

「ヴァルは今どこに」

「逃げた」縹の声は感情を削ぎ落としたようにまっ平らだった。「星座商会の人間と一緒に。昨夜、倉庫の鍵を渡して」

 沈黙が降りた。砕けた欠片の光が揺れている。誰かが幼い頃に食べた甘いものの記憶、誰かが愛する人の名を初めて口にしたときの記憶。それらが今、床に溶けて消えていく。

 そのとき、入口の方で音がした。

 重い足音が複数。蒼汰が振り返ると、三人の男が闇から滲み出るように立っていた。揃って灰色の外套を纏い、胸元に星を模した銀の徽章をつけていた。中央の男が、ゆっくりと口を開く。

「縹。回収に来た」

 低く穏やかな声だったが、その穏やかさは凪いだ水面に似ていた。何かが底に沈んでいる。

「返すものはない」縹は動かなかった。「わたしの部下が横流しした記憶は、わたしが取り戻す。それがどこにあるか、もう知っている」

「契約の問題だ」男は微笑んだ。「君が知っているかどうかは関係ない。われわれと君の間には、三年前から————」

「そんな契約をした覚えはない」

 縹の声が、鋭く遮った。蒼汰は息を詰めながら、二人の間にある不可視の綱を感じていた。三年前、という言葉が引っかかった。縹が裏社会に入った時期と重なる。

「縹さん」蒼汰は小声で言った。「その人たちは」

「蒼汰くん、零花ちゃん。今すぐここを出て」

 縹は視線を男たちに向けたまま言った。声の温度が、聞いたことのないほど低かった。

「でも————」

「出ろ、と言っている」

 灰色の男たちが動いた。蒼汰が零花の手を引いて後退しようとした瞬間、男の一人が回り込んできた。逃げ道を塞ぐように。静かに、しかし確実に。

「地図師の見習いも来ていたのか」中央の男が言った。「ちょうどいい。君たちにも聞きたいことがある。蒼汰くん、と言ったね。ギルドの記録にある名前と一致する」

 冷たいものが背筋を走った。この男は、蒼汰の名を知っていた。それだけでなく、ギルドの記録を参照できる立場にある。

 零花が蒼汰の手を握り返した。その手は震えていなかったが、指先が冷たかった。蒼汰は零花の感情を読み取ろうとしたが、今の彼女の表情は珍しく読めなかった。追体験する感情が多すぎて処理しきれていないのかもしれない。この場所には、砕けた記憶が溢れている。

「君の白紙の記憶について、われわれも以前から興味があった」

 男の言葉が、部屋の空気を変えた。

 縹が動いたのはそのときだった。

 音もなく、煙のように。男たちの視線が蒼汰に向いた一瞬の隙を縫って、縹は中央の男と蒼汰の間に割り込んだ。右手には、記憶の欠片を砕いたときに生じる干渉光を発する小瓶が三本、指の間に挟まれていた。記憶の光は、集まると人の視覚を一時的に奪う。縹は三本を同時に砕いた。

 白い閃光が倉庫を満たした。

「走れ」

 縹の声が耳元で聞こえた。蒼汰は零花の手を引き、感覚だけを頼りに出口へ向かった。男たちの怒声と、何かが倒れる音が後ろで重なった。

 外の空気は冷たく、夜の底のように澄んでいた。

 三人は路地を折れ、また折れ、古い石畳の上を駆けた。蒼汰の肺が悲鳴を上げ始めた頃、縹が立ち止まった。追跡の気配はなかった。

 しばらく、誰も喋らなかった。

 縹は壁に背を預け、目を閉じていた。荒い呼吸が少しずつ整っていく。蒼汰は何を言えばいいかわからず、ただそこに立っていた。

「わたしが最初に裏社会に入ったとき」縹がゆっくりと言い始めた。「資金を出した人間がいた。条件は、集めた記憶の一部を渡すことだった。わたしはその人間が星座商会の人間だとは知らなかった。知ったのは一年後だ」

「それで」蒼汰は言った。「断れなかった」

「断った」縹は目を開いた。「だから揉めた。それ以来、縁を切ったつもりでいた。ヴァルが繋ぎ直していたとは、気づかなかった」

 その言葉の末尾に、かすかな痛みが滲んでいた。縹が他人の裏切りを痛む。蒼汰は、それを初めて知った気がした。冷酷な記憶商人として認識していた人間が、今夜初めて輪郭を持った人として見えた。

「なぜ、かばってくれたんですか」蒼汰は訊いた。

 縹はすぐには答えなかった。夜空を見上げた。今夜も、星座は少ない。本来そこにあるはずの光の形が、ところどころ抜け落ちて、星図の虫食いのようになっていた。

「守ろうとしているものが、重なっているのかもしれない」

 静かな、しかしどこか不思議な確かさを持つ言葉だった。蒼汰はその言葉の意味を問いたかったが、縹の横顔を見て、やめた。今夜はまだ、その答えを受け取る段階ではない気がした。

 零花が空を仰いでいた。目を細め、何かを探すように。

「ねえ、蒼汰くん」零花が静かに言った。「星座商会って、どれくらい前からあるんだろう」

「さあ」蒼汰は首を傾けた。「でも、あの人たちは蒼汰の白紙記憶を知っていた。ギルドの記録にアクセスできるということは、ギルドと無関係じゃない」

 零花は頷いた。その目に、夢の中の映像が重なっているのが、蒼汰にはなんとなくわかった。書くたびに消えていく地図師。最後に残された孤独な一つ星。

「天弦老師は」零花が呟いた。「知っているんじゃないかな。星座商会のことも」

 その言葉が夜の空気に溶けた瞬間、霞鳥の翼の音が、どこかで聞こえた気がした。遠く、しかし確かに。風ではなく、羽ばたきとして。蒼汰は空を見上げたが、鳥の姿はなかった。

 ただ、抜け落ちた星座の隙間に、かつてそこにあったはずの光の残痕が、薄く瞬いていた。

 まるで、消えたはずのものが息をしているように。

朽ちない星座と、忘れ屋の地図師

27

縹との決裂と和解

綾瀬 燈子

2026-06-08

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第27話 縹との決裂と和解 - 朽ちない星座と、忘れ屋の地図師 | 福神漬出版