ギルドの廊下は、いつも静かすぎるほど静かだった。
石畳の床に足音が吸い込まれ、壁に埋め込まれた燐光石だけが青白い光を灯している。蒼汰は零花と縹の三人で長い廊下を歩きながら、何度も自分の手のひらを見た。地図師の手。記憶を写す手。その手が、もしかしたら自分自身の記憶を奪ったかもしれない誰かと同じ技法を持つ手だと、今は知っている。
廃倉庫で見つけた文書の記述が、頭の中でくり返されていた。
――*白紙の地図師は再編を無効化する。ゆえに記憶は切除された。*
それだけの一文だった。だが、その十数文字が蒼汰の胸郭を鈍器のように叩き続けていた。
「蒼汰」
零花の声が、廊下の空気を割った。振り返ると、少女は立ち止まって蒼汰を見ていた。感情を追体験する力を持つ彼女の目が、今は微かに揺れている。
「……あなたの中から、何かが染み出してくる」
「何が」
「名前のないもの。でも冷たくて、重い」
蒼汰はしばらく黙った。正直に言えば、自分でもその冷たさと重さの正体がわからなかった。衝撃だとか怒りだとか悲しみだとか、そういう分かりやすい言葉に収まらない何かが、胸の底でじっとりと広がっている。
「怒っていいと思うよ」
縹が前を向いたまま言った。感情を隠すのが習い性の男にしては、珍しく平坦な声だった。
「誰かが意図的にやったんだろう。お前の記憶を。それは怒っていい話だ」
「……うん」
蒼汰は小さく頷いた。でも怒りはまだ来なかった。来ているのはただ、この廊下の果てに待つ老師の部屋への、奇妙なほど静かな足取りだけだった。
天弦老師の執務室は、観測塔の三層にある。扉の前に立ったとき、蒼汰は一度だけ深く息を吸った。ノックをすると、「どうぞ」という穏やかな声がした。いつもと変わらない声だった。それがむしろ、胸に刺さった。
老師は机の前に座り、羊皮紙の束に目を落としていた。三人が入ってきても顔を上げず、羽根ペンを走らせ続けている。やがてペンを置き、ゆっくりと椅子ごとこちらを向いた。
「お帰り。随分と遅かったな」
「老師」
蒼汰は文書を机の上に置いた。廃倉庫で縹が入手した、あの文書だ。天弦の目がそこに落ちた。表情は変わらなかった。それが答えの一つだと、蒼汰は思った。
「私の記憶が、意図的に切り取られた可能性があると書いてあります。技法は地図師のものと一致すると」
老師は長い沈黙の後、「そうだ」と言った。
たった二文字だった。だが、その二文字が部屋の空気を根底から変えた。零花が息を呑むのが聞こえた。縹は壁に背をもたれ、目を細めた。
「なぜ」
「それを話すには、少し長くなる」
「聞きます」
老師は机の引き出しを開け、薄い冊子を取り出した。表紙には何も書かれていない。それを机の上に置き、しかし開かずに両手を重ねた。
「蒼汰、お前が七歳だったとき、お前の両親は夜空消滅の第一波に巻き込まれた。知っているか」
知らなかった。蒼汰の記憶が白紙になるのはそれより以前からだと思っていたから、七歳という年齢に引っかかりを覚えた。
「夜空消滅の第一波は、三十年前だ。そのとき消えたのは小さな星座群だったが、一部の地域では記憶の崩落が起きた。お前の両親はそれに遭遇し、記憶の大半を失った。そしてお前は、それを目撃した」
「……」
「七歳の子供が、両親の記憶が崩落していく光景を見た。どれほどのものか、想像できるか」
蒼汰には想像できなかった。というよりも、そもそもその記憶がない。白紙の、あの地図の部分に相当する記憶が、きれいさっぱり存在していない。
「ギルドに当時所属していた一人の地図師が、お前の記憶を切除した。お前を守るために、と言った。トラウマとなる記憶を持ち続けることで、お前の地図師としての能力が歪むことを恐れた、と」
「誰ですか」
老師は静かに答えた。
「私だ」
部屋が静止した。
蒼汰は老師の顔を見た。白い眉。深く刻まれた皺。温かみのある目。この十年以上、師と慕ってきた人間の顔が、今この瞬間、別の角度から浮かび上がってくるようだった。
「……老師が」
「お前が泣き続けていた。三日間、眠らずに泣いていた。当時のお前の母から頼まれた。この子から、あの夜の記憶を消してやってほしいと。私は地図師としての技法を使い、お前の幼少期の記憶の一部を切除した」
「一部だけじゃないでしょう」
蒼汰の声は思ったより低く出た。
「白紙は、七歳以前にまで及んでいます。あの夜だけじゃない。幼い頃の記憶が、全部ない」
老師が初めて、表情を歪めた。苦いものが顔の上に浮かんで、すぐに沈んだ。
「……それは、誤算だった。記憶の切除は繊細な作業だ。あの夜の記憶を切り取る際、想定よりも広い範囲に連鎖した。記憶は地図のように区画が分かれているわけではない。感情でつながっている。あの夜の恐怖と結びついた記憶が、すべて一緒に剥がれてしまった」
静寂が落ちた。
蒼汰は自分の手のひらをまた見た。地図師の手。記憶を写す手。そして今、その手が担うべき記憶の一部が、この目の前の人間によって奪われたという事実が、ゆっくりと肺の中に降り積もっていった。
「謝らなければならないとは、ずっと思っていた」
「思っていただけですか」
縹が壁から身体を起こして言った。老師は縹を見た。
「お前がギルドに入ってきたとき、白紙の記憶は私の失敗の痕跡だと気づいた。しかしそのとき、お前の白紙が夜空再編の鍵になるという報告が上がってきた。星座商会から。もし記憶を戻せばシステムを無効化できるが、戻す方法がまだわからなかった。だから、沈黙していた」
「沈黙が、星座を消したんじゃないですか」
零花が静かに言った。彼女の声は感情的ではなかったが、だからこそ鋭く刺さった。老師はゆっくりと目を閉じた。
「そうかもしれない」
蒼汰は机の上の冊子に目を落とした。
「それは何ですか」
「記憶を切除した際の記録だ。どの部位を、どのような角度で切り取ったか。地図師の技法は精密だ。記録が残っていれば、逆手順で記憶を戻す手掛かりになるかもしれない」
「……くれますか」
老師は少し間を置いてから、冊子を蒼汰の方に押した。蒼汰はそれを手に取った。表紙を触ると、薄い紙の感触が指先に伝わってきた。中に自分の記憶の設計図が書いてある。奪われた記憶の、地図が。
「怒っているか」
老師が問うた。蒼汰はしばらく答えなかった。怒りはあった。遅れてやっと来た怒りが、じわりと胸の奥で灯った。でもそれ以上に、胸の中に大きな穴が開いているような感覚があった。埋まらない白紙が、今ようやく「何故」を持ったことで、逆に深くなったような気がした。
「……怒っています」
正直に言った。
「でも今は、それより先に進みたい。記憶を取り戻して、夜空を止める方法を探したい」
零花が蒼汰の袖をそっと掴んだ。指先が冷たかった。それが彼女なりの、言葉にならない何かだと蒼汰には分かった。
「行こう」と蒼汰は二人に言い、老師には背を向けた。
廊下に出たとき、燐光石の青い光が三人の影を床に落とした。蒼汰の手には冊子があった。その薄さが、奇妙なほど重く感じられた。
奪われた記憶の地図を手に、蒼汰は歩いた。取り戻すための地図として。
そのとき廊下の突き当たりの窓の外で、何かが翼を鳴らした。
白く細い鳥が、ガラスの向こうで一瞬だけ止まり、蒼汰の目を見た。霞鳥だった。その嘴が開き、声にならない言葉が口の形だけで告げられた。
蒼汰にはそれが読めた。
――*記憶は切られていない。隠されている。*
鳥は夜へ消えた。廊下は静寂に戻った。蒼汰は立ち止まり、手の中の冊子を見下ろした。
切除と隠蔽は、違う。
老師が嘘をついているのか。あるいは老師もまた、何かを知らないのか。白紙の地図に、また新しい問いが書き加えられた。