地図師ギルドの裏通りには、昼間でも光が届かない。
石畳の隙間から染み出す湿気が、蒼汰の足首に纏わりついた。目を細めて路地の奥を見ると、崩れかけた看板が風に揺れていた。「星石屋」という文字は半分剥がれていて、残った「石」の一字だけが夜気の中でかろうじて読める。
縹の縄張りに踏み込むのは、これが初めてではない。だが今夜は違う。蒼汰の手には、零花が意識を取り戻してから書き留めた言葉が走り書きされた紙切れがあった。
——夜空を書き直してくれ。
その声の主が誰であるかは、まだわからない。わかっているのは、縹が裏社会で扱う「消えた記憶」の来歴を辿れば、何かに辿り着けるかもしれないということだけだった。
扉を押す前に、蒼汰は一度だけ呼吸を整えた。
店の奥は、表向きの雑然さとは裏腹に、異様なほど静まり返っていた。棚には記憶の欠片を封じ込めたガラス球が所狭しと並んでいるが、どれも薄くくすんでいる。かつての夜空から落ちてきた星の残滓——それを縹はこうして集め、値をつけて売る。蒼汰にはどうしても、その行為を美しいとは思えなかった。
「来るとは思ってたよ」
声は奥の帳の向こうからした。
帳を手で払いのけると、縹が長椅子に足を組んで座っていた。白い指先が、小さなガラス球を弄んでいる。球の内側では微かに青い光がゆらいでいた——誰かの、もう戻らない記憶だ。
「座れば」
促されるまま、蒼汰は向かいの椅子に腰を下ろした。テーブルの上には湯気のない茶が二客、最初から用意されていた。
「情報が欲しい」
「知ってる」縹は球をテーブルに置いた。転がった球が止まるまで、二人は互いを見つめた。「地下の記憶倉庫で、あの娘が何かを受け取った。それが何かを知りたい。そうだろう」
蒼汰は眉を動かさなかった。情報が早い、とは聞いていたが、これほどとは思わなかった。
「なぜ知っている」
「私は記憶を扱う商人だよ、蒼汰。あの倉庫に出入りする者の記憶は、長年かけてほとんど手に入れてある。誰かが何かに触れれば、余波がここまで届く」
縹の目は薄く笑っていたが、奥は笑っていなかった。燈の光を受けたその瞳は、どこか深海の色をしている。蒼汰は以前から、この男が何を守るために笑うのかが気になっていた。冷酷な商人にしては、時折見せる沈黙が長すぎる。
「じゃあ、知っているんだな。夜空が消えていく理由を」
縹は答えなかった。指の腹でテーブルをゆっくりと叩く。一度、二度、三度。
「知っているとしたら」とようやく口を開いた。「お前には、それを買う対価がない」
「何が欲しい」
「さあ」縹は天井を見た。「お前が持っていて、私が持っていないもの」
蒼汰は考えた。金ではない。地位でもない。縹が裏社会で動かせるものは、ギルドの公式な権限よりも広い場合さえある。では——
「消えた星座の記憶」と蒼汰は言った。
縹の指が止まった。
「俺は地図師の見習いだ。記憶を地図に写す技は、ある程度使える。夜空から消えた星座の痕跡は、今もあちこちに残っている。人々が忘れかけた記憶の断片として、街の隅に降り積もっている。それを集めてきたら、話を聞かせてくれるか」
縹はしばらく黙っていた。帳の向こうで何かが動く気配があった——おそらく縹の手下が、話を聞いている。蒼汰はそれも含みに入れたうえで、言葉を選んでいた。
「百個」縹は静かに言った。
「百個?」
「消えた星座の記憶を、百個集めてこい。欠片でいい。ただしギルドの管理下に置かず、私のところに直接持ってくること。条件はそれだけだ」
百個。途方もない数に聞こえるが、実際には夜空の消滅速度を考えれば、それだけの痕跡は街中に散らばっているはずだった。問題は時間だ。星座はまだ消え続けている。集めている間にも、世界は少しずつ壊れていく。
「なぜそれが必要なんだ」
「私にも、調べたいことがある」縹の声は初めて、わずかに重みを帯びた。「夜空のことじゃない。もっと個人的なことだ。それ以上は言わない」
蒼汰は縹の顔を見た。整った顔立ちに、いつもの薄い仮面がある。しかしその下に、ひどく古い傷のようなものが透けて見えた。愛する者の記憶を守るために裏社会に身を沈めた——ギルドの中でそう囁かれていることを、蒼汰は知っていた。その「誰か」の記憶が、消えた星座と関係しているのかもしれなかった。
「……わかった」蒼汰は言った。「百個、集めてくる。その代わり、お前が持っている情報を全部話してくれ。隠し事なしで」
「全部、というのは難しい言葉だね」
「知っている限りで、いい」
縹はしばらく沈黙した。やがて、ゆっくりと頷いた。
「取引成立だ」
二人は茶には手をつけなかった。それでも、何かが決まった瞬間というのは不思議と静かで——蒼汰は帳を出るとき、背中にじりじりとした緊張が貼り付いているのを感じた。縹は最後まで動かなかった。ただ一言、帳の向こうから声だけが追いかけてきた。
「蒼汰」
「何だ」
「あの娘を、倉庫にもう一度連れていくつもりか」
蒼汰は振り返らなかった。
「それはまだ決めていない」
「そうか」短い沈黙。「ならひとつだけ忠告しておく。あの倉庫の最深部には、ギルドの公式記録にない区画がある。天弦老師が封じたとされている場所だ。お前たちが今いる場所の、ずっと下だ」
足が止まった。
「どうして、それを」
「私は記憶を扱う商人だと、さっきも言った」縹の声は平坦だったが、その平坦さがかえって不穏だった。「情報は対価を払った者にしか渡さない。今夜はここまでだ」
路地に出ると、夜風が頬を撫でた。蒼汰は空を仰いだ。
夜図界の夜空には、今夜もいくつかの星座が揺らいでいる。だが確かに、以前より少ない。一つの星座が消えるとき、それはただ光が消えるのではなく——誰かの記憶が、世界から文字通り失われる。その重さを、蒼汰はここ数日でようやく骨身で理解し始めていた。
天弦老師が封じた区画。
その言葉が、胸の中に引っかかった棘のように残った。師は何を知っていて、何を黙っているのか。地下の最深部に、まだ見ていないものがある。零花が受け取った懇願の声と、その封じられた区画は——おそらく、繋がっている。
蒼汰は歩き出した。百個の記憶の欠片を集める道は長い。しかしそれよりも、縹が最後に投げた言葉の重さが、足取りをわずかに変えていた。急がなければならない、と胸の奥が告げていた。夜空は待ってくれない。消えていく星座は、誰かが回収しなければ永遠に戻らない。
空の端で、一筋の光が静かに落ちた。
また一つ、誰かの記憶が夜空から剥がれ落ちた音がした。