都市の外縁に向かうほど、空が薄くなる。
蒼汰がそれに気づいたのは、観測塔の影が届かなくなった頃だった。夜図界の夜空は本来、深い藍色の絹布に無数の星座を縫い付けたような濃密さを持つ。しかし外縁部へと続く石畳の路地を進むにつれ、その濃密さが水で薄めた墨のように希薄になっていく。星座の輪郭がぼやけ、星と星を結ぶ光の線が途切れ途切れになり、やがて空そのものが色を失いかけている。
「天色が、抜けていく」
零花が隣でぽつりと言った。彼女の目は夜空に向いたまま、蒼汰の袖をわずかに引いている。その仕草が無意識のものだということを、蒼汰はもう知っていた。零花は怖いとも寂しいとも言わない。ただ、手が動く。
縹から告げられた情報は正確だった。消滅が集中している地域は、観測塔から最も遠い第七外縁区。地図師ギルドの管轄が薄い、半ば忘れられた区画だ。縹自身は「俺には旨みがない場所だ」と吐き捨てるように言ったが、だからこそ誰も調べていない、とも続けた。
路地の突き当たりを折れると、視界が開けた。
蒼汰は思わず足を止めた。
広場があった。正確には、広場だったものがある。噴水の台座は残っているが、水は流れていない。木製の長椅子が等間隔に並び、かつて住民たちが語らったであろう場所の記憶だけが、石畳の染みとして残っている。そして、そこに人がいた。
いや、人の形をしたものが。
老婆が一人、長椅子に座っていた。両手を膝の上に揃え、どこか遠くを見ている。しかし、その輪郭が揺れていた。まるで湯気が立ち上るように、彼女の身体の端々が夜気に溶け出している。指先が透けて、向こう側の石畳が見えた。
「あの人……」
零花の声が細くなった。
蒼汰は地図師の手帖を取り出したが、ペンを走らせる手が止まった。何を記録すべきかわからなかった。いや、正確には、記録することへの恐怖が先に来た。これを地図に落とせば、それは現実として確定してしまう。
広場の奥に、もっと多くの人影があった。
子供が走っている。しかし足音がしない。足そのものが地面に触れていないのかもしれない。中年の男が壁に寄りかかり、空を見上げている。その顔の半分が、背後の壁と同化しかけている。家族連れが手を繋いで歩いているが、繋いだ手の部分だけが実体を失い、二人の手が重なり合っている。
記憶が消えるとき、人は透明になっていく。
蒼汰はギルドの古い文書でその記述を読んだことがあった。しかし文字で知ることと、目の前で見ることは、まるで別の事象だった。文書の中の現象は静的で学術的だったが、目の前の老婆は今も静かに呼吸をしていて、時折、口元を動かしている。
何かを呟いている。
「蒼汰」
零花が彼の腕を掴んだ。掴んだというより、縋った。蒼汰が振り向くと、零花は広場全体を見渡しながら、その場に立ち尽くしていた。彼女の琥珀色の目が、普段とは違う揺れ方をしている。
「零花、大丈夫か」
「……聞こえる」
「何が」
「全部」
零花は他者の感情を追体験する。それが彼女の生まれ持った性質であり、時に呪いのように働くことを、蒼汰はすでに知っていた。しかし今この瞬間、広場に満ちているのは一人や二人の感情ではない。半透明化した数十人の、消えゆく記憶の澱のようなものが、この場所に堆積している。
零花はそれを、一度に受け取っている。
蒼汰は彼女の肩を掴もうとしたが、零花は一歩、広場の中心へと踏み出した。
老婆のそばに近づいていく。
老婆は気づかなかった。あるいは気づける認識が、もう残っていないのかもしれない。零花は老婆の正面にしゃがみ込み、その透けかけた顔をじっと見た。老婆の口元が動いている。蒼汰には聞こえなかったが、零花には届いているのだろう。
しばらく、沈黙が続いた。
やがて零花がゆっくりと立ち上がり、蒼汰のところへ戻ってきた。
その目が、濡れていた。
蒼汰は息を呑んだ。零花が泣くところを、一度も見たことがなかった。感情を追体験しながらも、それが彼女自身の感情ではないからだと、零花はいつも言っていた。悲しみも喜びも痛みも、自分を通過していくだけで、自分の中には何も残らないと。
「零花」
「あの人は」と零花は言った。声が、震えていた。「孫娘の名前を、呼んでいた。でも名前がわからなくなっていて……名前だけが消えていて……顔はまだ覚えているのに、名前だけが出てこなくて」
蒼汰は何も言えなかった。
「ほかの人たちも」零花は続けた。「みんな、誰かの名前を呼んでいる。でも呼ぼうとするたびに、その名前が口の中で溶けてしまって……出てこなくて……」
零花の声が途切れた。
「零花」
「怖い」
その言葉が出た瞬間、蒼汰は全身が静止するような感覚を覚えた。
零花が、自発的に感情の言葉を発した。
これまで零花は感情を言語化するとき、必ず「これは誰かの〇〇かもしれない」という前置きをつけた。自分の感情として断言することを、彼女は本能的に避けていた。それが他者から受け取ったものなのか、自分自身のものなのか、彼女には判別できないからだ。
しかし今、前置きはなかった。
「怖い」とだけ、言った。
「零花、今のは……」
「わからない」零花は首を振った。「でも、怖い。これが誰かの怖さなのか、私の怖さなのか、区別できない。でも……私の中にある。今、ここに、ある」
零花は自分の胸のあたりを、片手で押さえた。その仕草が、あまりにも人間的だった。落下した記憶の欠片から生まれた彼女が、初めて自分の内側に触れようとしている。
蒼汰は零花の手の上に、自分の手を重ねた。
「それでいい」と言った。「怖いなら、怖いでいい」
零花は蒼汰を見た。琥珀色の目から、一粒だけ、涙が落ちた。
彼女自身も気づいていないかもしれない。これが誰の涙なのか。しかし蒼汰には、今この瞬間、それが零花自身のものだという確信があった。理由は言語化できなかったが、確かにそう感じた。
広場の夜空で、また一つ、星が消えた。
静かに、音もなく。ただそこにあったものが、なくなった。老婆は相変わらず口元を動かしている。孫娘の名前を探し続けながら、少しずつ夜に溶けていく。
蒼汰は手帖を開いた。
今度こそ、ペンを走らせた。記録することへの恐怖は消えていなかったが、記録しないことへの恐怖のほうが、今は大きかった。この光景を地図に落とさなければ、この人たちが経験している喪失は、本当に何も残らないものになってしまう。
零花は蒼汰の隣に立ち、広場を見渡し続けた。半透明の人々が行き交う中で、彼女だけが完全な実体を持って立っている。記憶の欠片から生まれた少女が、記憶を失いゆく人々の中に立って、怖いと感じている。
その矛盾が、蒼汰には美しいものに見えた。
ペンを走らせながら、蒼汰はふと思った。縹が言っていた、天弦老師が封じた秘密の区画。そこに何があるのかを、自分はまだ知らない。しかしこの外縁部の惨状を見るかぎり、老師が何も知らなかったとは考えられない。
知っていた。知りながら、沈黙していた。
その理由が、地図の輪郭のように、薄ぼんやりと形を成し始めていた。
「蒼汰」
零花が呼んだ。
「あの子を見て」
広場の隅に、小さな子供が一人、しゃがみ込んでいた。半透明になりかけた手で、石畳に何かを書いている。蒼汰は目を凝らした。
名前だった。
必死に、何度も何度も、同じ名前を石畳に刻んでいる。消えていく記憶の中で、その子は最後まで覚えていたいものを書き続けている。
誰の名前なのかは、遠くて読めなかった。
蒼汰はページを新しく開き、その子の姿をそのまま地図に落とした。座標ではなく、風景として。記録ではなく、証言として。
夜空からまた、光が一つ、消えた。