観測塔の地下三層には、外の喧騒がまるで届かない。
分厚い石壁が光を遮り、いつ来ても同じ温度が漂っているその部屋を、蒼汰は「死んだ時間の倉庫」と心のなかで呼んでいた。棚という棚には、記憶の欠片を封じたガラス管が並んでいる。大きなものは親指ほど、小さなものは針の先ほど。どれも仄かに発光しており、暗がりのなかで部屋全体がぼんやりと青く滲んで見えた。
零花がその一本を手に取ったのは、蒼汰が記録用紙を広げた直後のことだった。
「これ、触れてもいい?」
彼女の声は低く、けれどどこかはずんでいた。ガラス管の中に閉じ込められた光は、彼女の指先が近づくにつれてわずかに明るさを増した。まるで応答するように。
「いちおう、危険はないと思う。でも、零花には余計なものまで入ってくるかもしれない」
蒼汰が言うと、零花は少し考える顔をした。前話で確認したことが頭の中で反芻されているのか、視線が一度だけ遠くなる。それからゆっくりと首を振った。
「それを確かめたいから、やってみる」
淡々とした言葉だったが、蒼汰にはその下にあるものが少し見えた気がした。彼女はいつも、自分の感情が何なのかわからないと言う。追体験する力を持ちながら、自分だけが空洞だと。だからこそ、他者の記憶に触れることへの好奇心は、探求というより渇望に近いのかもしれない。
零花がガラス管を両手で包んだ。
最初の数秒は、何も起こらなかった。
蒼汰は息を詰めながら零花の表情を観察する。目を閉じたまま、彼女は静止している。まつ毛が一度だけ震えた。
「……水のにおい。古い布のにおい」
零花がぽつりと言った。
「子どもが笑っている。女の人が何かを縫っている。夕暮れ。窓の外に、小さな星座が見える。ナフタナという名の星座。もう、ない」
蒼汰は素早くペンを走らせた。記録を取ることが今の自分にできることだと知っていた。
「続けられる?」
「うん」
零花の声は落ち着いていた。けれど次の瞬間、わずかに眉が寄った。
「何か、変わった。記憶が……重なってる。一つじゃない」
「複数の欠片の共鳴か」
蒼汰は周囲の棚を見渡した。ガラス管の光が、零花を中心にしてごく緩やかに揺れ始めていた。波紋のように。
「声が、する」
零花の声音が変わった。先ほどまでの観察するような調子が消え、まるで遠いものを聞き取ろうとするような、緊張した静けさが滲んだ。
「誰かの声。……男の人。年老いた人。泣いている」
蒼汰はペンを止めた。泣いている老人の記憶。それが何を意味するのか、考える前に零花が続けた。
「頼む、と言っている。頼む、書き直してくれ、と。夜空を。夜空を、もう一度——」
そこで零花の体が揺れた。
蒼汰が腕を伸ばすより早く、零花は膝から崩れ落ちた。ガラス管が手から離れて石床を転がる。蒼汰は咄嗟に零花の肩を支え、その体を抱えるように床に下ろした。
「零花!」
応答がない。目は閉じられ、顔色は蒼白を超えて灰みがかっていた。額には細かな汗が浮いている。蒼汰が耳を近づけると、呼吸はある。浅いが、規則的だ。
周囲のガラス管は、依然として揺れていた。いや、揺れているのではない。光が、弱まっている。まるで何かが吸われているように。
蒼汰は立ち上がり、棚に手を触れた。止まれ、と念じるように。効果があったかどうかわからないまま、光の減衰はゆっくりと収まっていった。
数分後、零花が目を開けた。
最初に見せたのは、困惑でも恐怖でもなく、奇妙な集中した表情だった。何かを掴もうとして、逃げられたときの顔。
「声が、消えた」
「意識を失う前に聞こえた声のこと。覚えてる?」
「夜空を書き直してくれ、と言っていた。それだけじゃなくて……懇願していた。命乞いのような感触だった」
零花は体を起こしながら言った。蒼汰が支えようとすると、小さく首を振った。自力で座り直した彼女の目は、焦点が合っているようで、どこか遠くを向いていた。
「感情が、大きすぎた。追体験しようとしたら、入口がなくなった。洪水みたいに、一気に——」
そこで言葉を切り、零花は額を押さえた。
「痛い」
その一言が、蒼汰の胸に刺さった。彼女が「痛い」と言うことは、ほとんどない。感情の表現が乏しい彼女が、こうして率直に苦痛を口にするとき、それは相当のことだと蒼汰は学んでいた。
「無理をしたんだ。実験はここで終わりにする」
「でも、あの声は——」
「今日はだめだ」
蒼汰が珍しく強い調子で言うと、零花は小さく口を閉じた。反論するというより、その声の温度を測るように、しばらく蒼汰の顔を見つめた。
「……怒ってる?」
「怒ってない。心配してる」
「違うの?」
「違う」
会話がそこで止まった。零花はまた視線を遠くにやる。部屋の隅の、光が最も弱い棚の方を。
「あの声は、夜空を作った誰かのものだと思う」
零花が静かに言った。
「作った、誰か」
「そうじゃなければ、あんな懇願の仕方はしない。夜空を書き直してくれ、というのは……壊れていくものを知っていて、止める力がなくて、他の誰かに縋っているみたいだった」
蒼汰はそれを聞きながら、床に転がっていたガラス管を拾い上げた。薄い光が中でかすかに揺れている。封じられた誰かの断片。老人の、涙の、懇願の。
観測塔へ収束する螺旋——蒼汰と瑠山が同じ結論に達した、消滅の軌跡。
その螺旋の中心に、この声の主がいるとしたら。
「零花」
「何」
「その声に、名前はあった?」
零花は少し考えてから、首を振った。
「声だけだった。でも……」
彼女はそこで一度、自分の手のひらを見た。ガラス管を握っていた、その手を。
「終わりに近づいたとき、何かが見えた気がした。星座の形じゃなくて、文字のような。でも読めなかった。頭が割れそうで、それ以上、見ていられなかった」
文字。星座の形でも記憶の映像でもなく、文字。
蒼汰は地図師の本能で、それが地図に書かれる「銘記」と同じ類のものではないかと感じた。記憶に込められた意図。書いた者の名前。
その名前が読めたとしたら。
「もう一度、やれるか」
自分の口から出た言葉に、蒼汰は直後に後悔した。零花がまだ額を押さえているのに。けれど零花は顔を上げて、静かに蒼汰を見た。恨むでもなく、困るでもなく、ただ問いの重さを量るように。
「今は無理」
「わかってる、今はって言ってない——」
「でも、いつかはやる」
零花の声に、蒼汰が想定していなかった色が混じっていた。恐怖ではなかった。むしろ逆の何か。あの声が持っていた感情を、自分のなかで処理しきれていないのに、それでもその声の源へ向かおうとする、固い意志のようなもの。
「あの人は、ずっと待っていた。誰かが聞いてくれるのを」
零花は立ち上がった。足元がわずかに揺れたが、壁に手をつきながらも転ばなかった。
「わたしが聞いた。だから、応えなきゃいけない気がする」
応えなきゃいけない。
蒼汰はその言葉を、しばらく胸の中で転がした。感情がわからないと言う少女が、他者の感情に動かされて立ち上がろうとしている。これは彼女自身の意志なのか、記憶の残響なのか。
あるいは、その境目に意味などないのかもしれない。
地下三層の青い光の中で、二人はしばらく沈黙していた。ガラス管の群れが静かに輝き、誰も聞いていなかった声たちが、壁の向こうで眠り続けている。
その夜、観測塔の最上階で、一つの記録が音もなく書き換えられたことを、二人はまだ知らない。