天弦の声が、まだ背中に刺さっている気がした。
*行くな。あそこは、お前たちが踏み込む場所ではない。*
老師の目はいつになく切実で、温厚な皺の奥に、何か別のものが揺れていた。しかし蒼汰は頷かなかった。外縁区の老女が透けて消えていく瞬間を、胸の奥に焼きつけたまま、引き返すことができなかった。
闇市は、都市の南端にある貯水塔の地下にあると霞鳥が告げた。
「あの鳥の言葉を、そのまま信じるの」と零花は問うたが、否定はしなかった。彼女はいつも問いを立てる。答えを求めているというより、自分の感情を言語化する練習をしているように、蒼汰には見えた。
貯水塔の外壁は古く、煉瓦の合間から夜草が伸びていた。地下へ降りる鉄扉は錆びて重く、しかし蝶番だけが不自然に新しい油を差されていた。人が頻繁に出入りしている証拠だった。
扉の向こうから、低い喧騒が漏れてくる。
蒼汰は零花を一度振り返った。彼女の瞳は夜空を映したように静かで、それでいて微かな緊張が、睫毛の震えに滲んでいた。感情の名前を知らないはずの彼女が、今は確かに何かを感じている。その事実が、妙な勇気を蒼汰に与えた。
「行こう」と言った。
扉を引いた。
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地下は広かった。
もとは貯水槽だったのだろう、丸天井のアーチが連なり、燐光を発する苔が石壁を覆っている。その青白い光の中で、人々は低い声で取引をしていた。
売られているのは、記憶だった。
小瓶の中に封じられたもの。羊皮紙に刷り込まれたもの。硝子片に凝固させられたもの。あるいは小さな金属の棺に納められたもの。それぞれが異なる色と温度を持って、棚に並び、布の上に広げられ、人の手から人の手へと渡っていく。
蒼汰は息を呑んだ。
記憶は本来、夜空に上っていくものだ。人が死に、あるいは深く忘れ、切り離されたとき、それは光の欠片となって星座の一部となる。地図師はその星座を写し、記録する。それが世界の秩序であるはずだった。
しかしここにある記憶は、夜空に届く前に回収されたものだ。消えていく星座から剥ぎ取られ、流通に乗せられた欠片たち。
ひとつの小瓶を目が捉えた。淡い橙色に光る液体の中で、子どもが笑っている影絵のような映像が揺れていた。誰かの幸福な記憶が、値札をつけられて売られている。
「気分が悪い」と零花が静かに言った。感情の名前を学んでいる彼女が、今その感情を探すことなく言えた。それは彼女が初めて、反射的に感じたものを言葉にした瞬間かもしれなかった。
「俺もだ」と蒼汰は答えた。
二人は人混みの中を進んだ。客は様々だった。上質な外套を纏った富裕層が、亡くした家族の記憶を買い求めている。若い男が、自分が忘れてしまった恋人の顔を探している。老いた女が、死んだ子どもの声だという小瓶を胸に抱いて泣いている。
誰もが何かを失っていた。そしてその喪失に、ここの者たちが値をつけていた。
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縹は、市の最も奥にいた。
薄墨色の長衣を纏い、磨かれた木机の前に座って、帳簿に何かを書き込んでいた。端正な横顔は感情を削ぎ落としたように平静で、近づく者があれば一度だけ視線を上げ、値段と品定めだけで話を終わらせる。
噂通りの男だと蒼汰は思った。記憶商人の元締め、縹。年は二十を少し出たばかりに見えるが、目の奥に年齢不相応な疲弊が宿っている。
蒼汰が近づいたとき、縹は顔を上げる前に言った。
「地図師の見習いが来る場所ではない」
声は静かで、しかし拒絶は明確だった。
「どうしてわかった」
「においがする。インクと、地図羊皮紙の脂の」縹は帳簿から目を離さずに続けた。「それと、若い馬鹿の足音は独特だ。恐れと好奇心が混じると、歩幅が乱れる」
「消えていく星座から記憶を剥ぎ取っているのか」
縹がようやく顔を上げた。
視線は冷たくはなかった。それより遠いものだった。感情を持って人を見ているというより、事実を確認するための計測のように、蒼汰と零花を一度ずつ見た。
「剥ぎ取っている、という言い方は正確ではない」と彼は言った。「消えていく記憶は、どこにも行けずに漂う。夜空には戻れず、地上には留まれず、そのまま散れば誰の心にも残らない。俺はそれを回収している」
「回収して、売っている」
「そうだ。欲しい人間がいて、対価がある。それだけだ」
零花が口を開いた。
「あの人たちは、買った記憶で何を得るの。他人の記憶は、自分のものにはならない」
縹は零花を見た。今度は少しだけ、違う見方をした。
「なぜそれを知っている」
「私が、記憶の欠片から生まれたから」と零花は答えた。「他者の感情を追体験できる。でもそれは私のものにならない。ただ、通り過ぎていく」
沈黙が落ちた。
縹は何かを言いかけ、やめた。机の上で指を一度だけ動かし、帳簿を閉じた。
「帰れ」と彼は言った。「ここは天弦の手の届く場所ではない。だからといって、お前たちのような者が踏み込んでいい場所でもない」
「星座が消えているのは、なぜだと思う」と蒼汰は退かずに言った。
「知らない」
「夜宮という名前を知っているか」
縹の手が、微かに止まった。
それはほんの一瞬で、すぐに平静に戻った。しかし蒼汰は見逃さなかった。
「帰れと言った」縹の声は変わらなかった。「次に来たら、客として扱わない」
周囲の気配が変わった。市の奥から、二人の男が近づいてくるのがわかった。
蒼汰は踵を返そうとした。そのとき、地図師手帳がずれた。外套の内側から半分だけ覗いた手帳の表紙を、縹の視線が捉えた。
一瞬だった。
しかしその一瞬、縹の顔から何かが剥がれた。冷静という鎧の下から、認識の色が走った。驚愕ではなく、確認のような、あるいは恐れに似た何かが、彼の目の奥を横切った。
「その手帳」
声が、初めて変わった。
蒼汰は手帳を引っ込めた。縹は言葉を続けなかった。男たちが隣に立ち、蒼汰と零花を出口に向けて無言で促した。
「縹」と蒼汰は歩きながら振り返った。「俺たちはまた来る」
返事はなかった。
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地上に出ると、夜気が冷たく肌を刺した。
二人はしばらく黙って歩いた。頭の中が整理できなかった。闇市の光景が、あの橙色に揺れる小瓶が、泣いていた老女の背中が、ぐるぐると巡った。
「縹は」と零花が言った。「あの人も、誰かの記憶を守ろうとしている」
「なぜそう思う」
「感じた。近づいたとき。怒りじゃなかった。あれは、何かを抱えている人の緊張だった」
蒼汰は空を見た。夜空の星座は今夜も少ない。あるべき場所に光がなく、代わりに暗い穴が口を開けている。
手帳を取り出した。表紙には何もない。ただの地図師手帳だ。しかし縹は、この手帳を見て何かを認識した。
夜宮という名を聞いたとき、縹は動じた。
この二つは、繋がっている。
遠くで霞鳥が鳴いた。夜と地の境界を滑るように、その声は響いて、消えた。
蒼汰は手帳を胸に押し当てた。白紙であるはずの自分の幼少期。その空白が今夜、初めて重さを持ったような気がした。