朝の外縁区は、いつも少し遅れて夜が明ける。
観測塔の光が届きにくいせいか、星暦市の中心部がとっくに青く染まった頃にも、外縁部の路地にはまだ夜の名残がべったりと貼り付いていた。石畳の隙間から育った雑草が風に揺れ、古い建物の壁には剥がれかけた地図師ギルドの認証プレートが錆びてぶら下がっている。
蒼汰と零花が外縁区へ来たのは、ギルドからの簡単な使いのためだった。外縁部の住人たちの記憶の記録更新、いわば定期の写し取り作業だ。師の天弦は「慣れるための良い機会だ」と蒼汰に言い、昨夜の重い空気をそのままにして二人を送り出した。
零花は蒼汰の半歩後ろをついてくる。昨夜の話をしてから、彼女はどこか静かになった。黙っているのではなく、何かを内側で丁寧に扱っているような、そういう静けさだった。
「外縁区は初めて?」と蒼汰が振り向くと、零花は石畳の模様を踏まないようにして歩きながら、小さく頷いた。
「街の端は、星座が遠い」と彼女は言った。「中心にいるとき、頭の上がいつも賑やかで。ここは、静か」
蒼汰は空を見上げた。昼間でも、外縁区の空はどこか薄い。夜になれば星座が浮かぶが、その光量は中心部の半分にも満たないという話だった。記憶が密集するのは、やはり人の多い場所なのだ。
路地の突き当たりに、その人はいた。
古いベンチの上に、小さく折りたたんだように座っている老女だった。白い髪が風に揺れていたが、風がなくても揺れているような心もとなさで、老女の輪郭は——蒼汰は目を細めた——光の加減ではなく、確かに、薄れていた。
指先が。
指先だけではなく、手の甲が、手首が、透けていた。
「おばあさん」と蒼汰は声をかけた。「大丈夫ですか」
老女はゆっくりと顔を上げた。目が合う。その目だけは、まだ確かな色を持っていた。深い、錆びた金色の瞳。年の重みと、何か穏やかなものが同居している目だった。
「ああ」と老女は言った。声は低く落ち着いていて、少しだけ掠れていた。「地図師の見習いさんかね。来たか」
「来たか、って」
「来るだろうと思っていたよ。誰かが来るだろうと」
蒼汰はベンチの傍らに膝をついた。横で零花が息を呑む音がした。老女の手が、石畳の模様を透かして見せていた。体の内側から光が抜けていくように、老女は世界の色の中に溶け込みつつあった。
「記憶が、なくなってきているんですか」と蒼汰は聞いた。
「もうほとんど残っていないよ」老女は静かに答えた。「自分の名前も、きのうの朝から思い出せなくなった。若い頃のことも、もうずっと前に消えてしまった。最後に残ったのは」——彼女の透けた手が、膝の上でゆっくりと重なった——「夜空のことだけ」
零花がベンチの反対側にそっと腰を下ろした。老女が彼女を見て、少し微笑んだ。
「変わった子だね。記憶の匂いがしない」
「わたしは、記憶から生まれたから」零花は答えた。「自分のものは、持っていないの」
「そうか」と老女は言った。不思議そうでも、怖がるでもなく、ただそうか、と言った。「ならよかった。お前さんには、私の最後の記憶を受け取る器があるかもしれない」
蒼汰は鞄から記録紙を取り出しかけて、止まった。これは写し取るべきものではない、と感じた。何か、もっと肉声で聞かなければならないことだと思った。
「夜空のことを、話してください」
老女は目を閉じた。風が吹いて、白い髪が揺れた。
「私が子供の頃、夜空はもっと複雑だった」老女はゆっくり話し始めた。「今みたいに、星座が整然と並んでいなかった。あちこちにほつれがあって、脈絡のない光が散らばっていて、でもその散らばり方に、生きた感じがあった。誰かが昨日笑ったこと、誰かが今朝泣いたこと、そういうものが全部ばらばらに光っていた」
老女の体が、また少し薄くなった気がした。ベンチの木目が、彼女の膝を透かして見え始めている。
「ある夜から、変わったんだ。急にきれいになってしまった。星座が整って、並んで、美しくなった。みんな喜んだよ。きれいになったって。でも私は、何かが書き換えられた気がして、ずっと怖かった」
蒼汰の手が震えた。記録紙を持ったまま、握る力が強くなる。
「書き換えられた、というのは」
「夜空が、もともとそうじゃなかった、ということさ」老女は目を開けた。錆びた金の瞳が、蒼汰をまっすぐに見た。「あの整った星座は、誰かが意図して作ったものだよ。そう思っていた。でもそれを言える人間が、いつの間にかいなくなっていた。私も、この記憶だけ最後まで残しておいたのに」
彼女は笑った。弱々しいが、本当に笑っていた。
「もう時間がないね」
「待って」と蒼汰は言った。声が上擦る。「記録できます。私が写し取れば、あなたの記憶はギルドで保管される。消えなくて済む」
「消えなくて済む、ね」老女は繰り返した。「若い地図師さん、記憶が保管されても、その人間は消えるんだよ。私はもう、それでいいと思っている」
蒼汰は何も言えなかった。
「ただ、誰かに聞いてほしかった。夜空が書き換えられる前の美しさを、知っている人間がいたということを」
老女の声が、少し遠くなった。体の輪郭が滲むように広がり、光の中に溶けていく。風がないのに、白い髪が揺れている。
蒼汰は気がつけば腕を伸ばしていた。消えかける手を、掴もうとした。触れた感触はあった。紙のように薄く軽かったが、確かに温かかった。
「ありがとう」と老女は言った。「覚えておいておくれ」
それが最後だった。
蒼汰の腕の中に、何も残らなかった。温度だけが、しばらく残った。
石畳の上には誰もいない。ベンチには老女が座っていた跡もなく、風だけが路地を通り抜けていった。
どれくらいそうしていたか、蒼汰にはわからなかった。腕を下ろして、石畳を見た。見えない何かを探すように、目が動いた。
「蒼汰」
零花の声がした。見ると、彼女は両手を胸に当てて、目を閉じていた。
「感じる」と零花は言った。「さっきのおばあさんの……感情じゃなくて、もっと静かなもの。何かを、渡そうとしていた」
「零花」
「書き換えられる前の夜空」彼女はゆっくり目を開けた。その目が、わずかに光って見えた。「わたし、見た気がする。夢の中の黒い水の向こうに、もっとずっと古い星座が、あった」
蒼汰は立ち上がった。足が震えていたが、それを無視した。
空を仰ぐ。昼間の白い空。夜になれば整然とした星座が浮かぶ、この空。誰かが作った、この空。
夜宮、と蒼汰の頭に名前が浮かんだ。三百年前の地図師。天弦が時折、語尾を濁して話す名前。
老女の温度がまだ腕に残っていた。消えた体の温度が。
「行こう」と蒼汰は言った。零花が頷く。
外縁区の空は薄く、遠く、今日も静かだった。だが蒼汰には今、その薄さが違って見えた。整然と美しい夜空の裏に、誰かが隠した本当の姿がある。消えた老女が最後まで守った記憶が、そこに繋がっている。
自分の白紙の記憶も、きっとその裏側に続いているのだ。
路地を出た先で、石畳の隙間から一羽の黒い羽根が舞い上がった。蒼汰は咄嗟に手を伸ばしたが、羽根は掴む前に光の粒になって散った。
霞鳥だ、と思った。
ならばあれは、見ていたということだ。
老女が消える瞬間を、蒼汰が腕を伸ばす瞬間を、すべてを。