夜は、零花にとって恐ろしい場所だった。
眠ることを覚えたのは、蒼汰の部屋に身を置くようになってからのことだ。それまでの彼女には、目を閉じるという行為の意味すらわからなかった。落下する星座の欠片から生まれた彼女に、休息の概念は後から与えられたものにすぎない。
だが今夜は、眠ることができた。
そして今夜も、夢を見た。
*
最初は、水だった。
黒い水が広がる場所に零花は立っていた。足元を見れば水面は鏡のようで、しかし自分の顔は映っていない。映っているのは他の誰かの顔ばかりだった。老いた女が泣いている。若い男が誰かと笑っている。子供が虫を捕まえて得意げに掲げている。
記憶だ、と零花は思った。これはすべて、誰かの記憶だ。
水面に散らばる無数の顔が、やがて流れ始める。川のように、星座のように、一列に並んでひとつの方向へ向かっていく。零花はその流れを追うことも逆らうこともできず、ただ足元が揺れるのを感じながら立ち尽くした。
声が聞こえた。
歌のような声ではなかった。呼びかけでもなかった。ただ息が漏れるような、かすかな嗚咽だった。
零花は水の中を歩き始めた。膝まで黒い水に浸かりながら進むと、流れに逆らうほど記憶の断片が濃密になっていった。見知らぬ人々の感情が次々と押し寄せてくる。悲しみ、喜び、怒り、恋慕、嫉妬、郷愁。どれも鋭く、どれも甘く、零花の輪郭を侵食しようとした。
それでも彼女の足は止まらなかった。
嗚咽は続いていた。
*
深部に達したとき、水が消えた。
そこだけ、妙に乾いた場所があった。水の中に浮かぶ島のような、記憶の密度が違う空間。零花が踏み入れると、周囲の声や感情がすうっと遠ざかり、代わりに静寂がやってきた。
子供が泣いていた。
小さな子供だった。歳は三つか四つか、それくらいだろう。座り込んで膝を抱え、顔を伏せて泣いている。周囲は薄暗く、床は石畳のようだったが、その輪郭はひどくぼやけていて、まるで誰かが消そうとしているかのように輪郭が揺れていた。
ただ、子供だけが鮮明だった。
泣き声だけが、鮮明だった。
零花は近づこうとした。だが足が動かない。まるで夢の法則がそれを禁じているように、彼女の体は石のように重かった。
そのとき、別の気配が現れた。
人の輪郭だった。子供に向かって近づいてくる、大きな影。大人の影。零花はその姿を見ようとしたが、影は逆光の中にあり、顔も衣装も判然としなかった。ただその動作だけがわかった。膝を折り、子供の前に跪き、両腕を広げて、子供を抱きしめようとしている。
子供の泣き声が止まりかけた。
小さな手が、影に向かって伸ばされた。
*
影が消えた。
唐突に、何の予告もなく。まるで蝋燭の火が風に消えるように、その大きな輪郭はかき消えた。子供の手だけが宙に残り、すぐにそれも震え始めた。
泣き声が戻ってきた。
今度はさっきよりずっと深いところから来るような声だった。零花の胸の中に直接染み込んでくるような、底のない悲しみ。彼女は自分が泣いているのか、子供が泣いているのか、もうわからなくなっていた。他者の感情を追体験する力が、今は呪いのように機能していた。
この悲しみは誰のものだ。
この喪失は、誰のものだ。
わからなかった。ただ胸が痛かった。そして、奇妙なことに、もう一つの感覚があった。既視感のような、それでいて既視感とは少し違う何か。この子供を、どこかで知っている気がする感覚。その涙を、どこかで見たことがある気がする感覚。
零花は名前を呼ぼうとした。
声が出なかった。
夢は、そこで終わった。
*
目を覚ました瞬間、天井が視界に飛び込んできた。
蒼汰の部屋の天井は古い木材でできていて、節目が丸く浮き出ている。零花はその節目のひとつをぼんやりと見つめながら、呼吸を整えた。夢の感触がまだ体に残っていた。あの泣き声が、まだ耳の奥で鳴っていた。
外を見ると、夜はまだ深かった。観測塔の明かりが窓から差し込んでいて、夜空には星座が薄く広がっていた。以前より間引かれた星座は、どこか骨格だけになった生き物のように見えた。
蒼汰は床に敷いた薄い褥の上で眠っていた。零花に寝台を譲り、自分は地図の入った革袋を枕代わりにして横になっている。穏やかな寝顔だった。
零花はしばらく、その寝顔を見ていた。
夢の中の子供の、伏せた顔を思った。年齢も、髪の色も、何もわからなかった。ただ、泣いていたということだけが、骨まで染み込むほど鮮明だった。
翌朝、蒼汰が目を覚ますと、零花はすでに起きて窓際に座っていた。朝の光の中で膝を抱え、夜空の残滓を眺めている。夜明けに紛れて消えかけている星座の最後のひとつが、東の空に薄く揺れていた。
「ずいぶん早いな」
蒼汰が言うと、零花は振り返らなかった。
「眠れなかった」
「夢でも見たか」
少しの間があった。零花の指が、膝の上でかすかに動いた。
「見た」
その声は普段より低く、どこか遠かった。蒼汰は寝台から起き上がり、地図を入れた革袋を引き寄せながら零花の横顔を見た。
「どんな夢だ」
零花はしばらく答えなかった。外では小鳥が鳴いていた。観測塔の鐘が遠くで打ち鳴らされて、朝の訪れを告げた。
「水の中にいた。たくさんの記憶が流れていた。みんなの記憶が。でも、その中に、ひとつだけ違うものがあった」
「違う?」
「鮮明なものが」
零花はようやく蒼汰の方を向いた。その目は、蒼汰が今まで見たことのない色をしていた。不安でも混乱でもなく、もっと根の深いところにある、静かな怯えのような色。
「小さな子供が泣いていた。誰かが、その子を抱きしめようとして、消えた」
蒼汰は何も言わなかった。
言えなかった、というほうが正確だろう。零花の言葉が、どこかで自分の中の何かに触れた気がした。白紙のはずの幼少期の記憶が、まるでページを捲ろうとするように、かすかに震えた気がした。だが何も出てこない。出てこないのに、胸だけが痛かった。
「私は」と零花が言った。「何かを知っている気がする」
「知っている?」
「知っているという言葉が正しいかわからない。でも、あの夢は、ただの夢じゃないと思う。誰かの記憶だと思う。私の中に、誰かの記憶が混じっていると思う」
零花の声は震えていなかった。震えていないぶん、かえって零花の内側の揺れが伝わってきた。
「自分の中に何があるのかわからない。他の誰かの感情は追体験できるのに、自分が今何を感じているのかわからない。夢の子供が泣いているのか、私が泣きたいのかも、わからない」
蒼汰は、何か言わなければならないと思った。慰めか、肯定か、あるいは単純な相槌か。だが口を開いても、言葉は出てこなかった。
ただ、零花の隣に座った。
それだけだった。
二人は並んで、消えゆく最後の星座を眺めた。薄明の空に、記憶の光が溶けていくのを。
蒼汰の胸の中で、白紙のページが再び、かすかに震えた。今度は少し、長く。
まるで、何かを覚えていると言いたがっているように。