朝が来るとは思っていなかった。

 嵐は夜のうちに静まり、灯京の空は傷を洗い流したように青白く明けていた。川沿いに漂う灯篭型のデータ端末が、夜明けの光を浴びて淡く点滅している。あの小さな光のひとつひとつに誰かの記憶が収まっているのだと思うと、夜依はいつも奇妙な眩暈を覚えた。

 事務所の奥の長椅子で、千重が眠っていた。

 毛布を顎のあたりまで引き上げて、規則正しい呼吸をしている。昨夜あれほど揺れていた表情が、今は凪いでいた。まだ十代だろうか。睫毛の長い、どこか作り物めいた整った顔立ちだと夜依は思った。そして即座に、その思考を打ち消した。人の顔を「作り物めいた」と感じた自分を、警戒するように。

 壱は卓上に突っ伏して寝ていた。記憶スキャナーを握ったまま、ひどい格好で。夜依は近づいて機材だけそっと引き取った。壱の指が一瞬だけ宙を掴むような仕草を見せたが、そのまま深い眠りに戻っていった。

 夜依は窓辺に立って茶を飲んだ。封印術式のことを考えた。国管理の記録と同じ構造——それが意味することの重さを、夜依はまだ誰にも口にしていなかった。壱には見えていたはずだ。しかし壱も黙っていた。それがふたりの、長年のやり方だった。声にすれば現実になる。現実になったものは、誰かを傷つける。

 ノックの音が三回、した。

 扉の向こうから聞こえてくるのは、靴音ではなく——スリッパのひと撫でするような、ゆったりとした足音だ。夜依は鍵を開ける前から、誰だかわかっていた。

「起きてたのね、夜依さん」

 糸村百合江は、漆塗りのお盆に急須と湯呑みを三つ載せて立っていた。白地に藍の模様の着物。背筋だけが異様にまっすぐで、顔の皺の深さと釣り合っていなかった。八十を超えているはずなのに、その目には濁りがない。澄んだ琥珀色をした目が、夜依を見て細くなった。

「上から物音が聞こえたから。ついでにこれを」

「いつもすみません」

「謝るくらいなら茶を受け取りなさい。冷めるから」

 夜依は苦笑いで湯呑みを受け取った。百合江は遠慮のかけらも見せず部屋に入ってきて、まず壱を一瞥した。

「若いもんは寝相が悪いわね」

「働かせすぎました」

「あなたが自分を働かせすぎるのよ。それが伝染るの」

 百合江は卓を挟んで椅子に腰を下ろした。急須を手に取り、自分の湯呑みに茶を注いだ。その手の甲の静脈が、浮き出た血管の地図のように走っていた。長椅子のほうには目を向けていない。向けていないのに、夜依には——わかった。百合江が千重の存在を、すでに知覚しているということが。

「お客さんかしら」

 百合江が、さりげなく問うた。あまりにも自然な問い方だった。それが却って、夜依の注意を引いた。

「昨夜、倒れ込んできた子です。事情があって、しばらく置くことにしました」

「そう」

 それきり、百合江は茶を飲んだ。夜依も茶を飲んだ。沈黙は不快ではなかった。百合江との時間はいつもこうだった——言葉が少なくて、しかし空っぽではない。

 千重が小さく身じろいだ。毛布の端がずり落ちる。

 百合江の視線が、初めて千重へ向いた。

 ほんの一瞬だった。

 茶碗を持つ指が、かすかに白くなった。息が止まったわけではない。表情が崩れたわけでもない。ただ——そこに何か、波のようなものが走った。夜依の眼はそれを捉えた。弁護士として、人の嘘と動揺を読み続けてきた眼が、見逃さなかった。

 百合江はすぐに元の静けさを取り戻した。

「かわいらしい子ね」

「ええ」

 夜依は何も言わなかった。問い詰めることもしなかった。百合江を追い詰めても何も出ない——そうではなく、百合江は自分のペースでしか語らない人だと知っていた。それがもどかしいことも、救いになることもあった。

「百合江さん」と夜依は言った。「一つ、訊いていいですか」

「何でも」

「灯京が開市した当初の司法記録——どこかで見ることはできますか。正式なルートでは閲覧制限がかかっていて、私のランクでは弾かれてしまう」

 百合江の眉が、ほんのわずかに上がった。

「何を探しているの」

「まだわかりません。でも、何かがある気がして」

 夜依は曖昧に答えた。千重のことを言うつもりはなかった。記憶の封印術式のことも。それらを口にするには、まだ自分の中で形が定まっていなかった。

 百合江はしばらく茶碗を見つめていた。川面の光が窓から差し込んで、老いた横顔に揺らぎをつくった。

「開市期の判例集というものが、いくつか残っているわ」

 静かな声だった。

「公式記録には載っていない案件も含めて、当時の裁判官たちが私的に記録しておいたもの。私も何冊か持っている」

「読めますか」

「読んでどうするつもり」

「真実を、探したい」

 言ってから、夜依は自分の言葉の青さに少し恥ずかしくなった。真実を探したい——まるで新人の頃の自分のようだ。あの頃の自分は、今の自分が嫌いだっただろうか。それとも羨ましかっただろうか。

 百合江は笑わなかった。

「真実ね」と繰り返した。「その言葉を使う弁護士が、灯京にどれほど残っているかしら」

「私くらいですか」

「あなたと、あともう一人か二人ね。——いいわ、見せてあげる。ただし」

 百合江は立ち上がった。お盆を手に取り、空になった夜依の湯呑みを載せた。

「あの子が目を覚ましてから、にして」

「なぜ」

「勘よ」

 それ以上の説明はなかった。百合江は来たときと同じように、音もなく部屋を出ていった。扉が閉まる直前、廊下の光が一瞬だけ差し込んで——百合江の後ろ姿が、影のように細く見えた。

 夜依は窓の外に目を戻した。

 川を漂う灯篭のひとつが、建物の陰に入って見えなくなった。また別の光が浮かんでくる。消えては生まれ、生まれては消える。この街の記憶はいつもそうだ、と夜依は思った。誰かが灯すたびに、誰かの暗闇が深くなる。

「……夜依さん」

 千重の声がした。

 振り返ると、少女は半身を起こして目をしばたかせていた。毛布を抱きしめるようにして、部屋の中を見回している。昨夜のことを確かめるように。

「おはよう」と夜依は言った。「よく眠れた?」

「……はい。すごく」

 千重は少し笑った。下手な笑い方だった。口の端が先に動いて、目が遅れてついてくる。

「百合江さんが茶を置いていってくれた。飲む?」

「百合江さん?」

「この建物の大家さん。いい人だから安心して」

 千重は頷いて、湯呑みを両手で包むように受け取った。湯気が白く立ち上った。千重の目がそれを追いかけた。夢でも見ているような顔で。

 夜依はもう一度、窓の外を見た。百合江の部屋の灯りが、ちょうど向かいの棟の窓に映っていた。あの部屋に、閉じられた判例集がある。灯京がまだ別の名前を持っていた頃の、誰も知らない法廷の記録が。

 千重が目を覚ましてから、と百合江は言った。

 その言葉の意味を、夜依はまだ測りかねていた。

万灯流しと、嘘つきたちの法廷

4

大家と秘密の蔵書

朔間 灯子

2026-05-17

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第4話 大家と秘密の蔵書 - 万灯流しと、嘘つきたちの法廷 | 福神漬出版