嵐が来る、と稲森壱が言ったのは、夕刻のことだった。

 彼は窓の外を一瞥しただけで、そう告げた。灯京の空は分厚い雲に覆われ、高層ビルの輪郭が滲んでいた。漂う灯篭型データ端末がいつもより少ない——嵐の気配を感知した自律制御が、機体を格納庫へ戻しているのだ。川面を揺れる光も今夜は早く消えるだろう。

「帰らなくていいの」と瀬戸夜依は書類から目を離さずに言った。「最終電は二十二時まで」

「事務所に泊まります」

「勝手に決めないで」

「先生こそ」と壱は静かに返した。「昨夜も徹夜でしょう。目の下、薄いですよ」

 夜依は何も答えなかった。それが肯定だと壱は受け取ったらしく、それ以上何も言わなかった。彼はそういう青年だった。余分なことを言わない。感情を重ねない。ただ必要なことだけを、過不足なく差し出してくる。

 採用から三日が経っていた。

 岸田事件の証拠映像——壱が「編集点がある」と指摘したあの映像——の再鑑定申請は、まだ受理されていない。蒼川礼司の署名がなければ動かない。灯京の司法とはそういう場所だった。正義の名のもとに、ひとりの人間の手が流れを塞ぐことができる。夜依はそのことを、自分の冤罪で身をもって知っていた。

 雨が降り始めたのは、二十三時を回った頃だった。

 最初は静かだった。窓を叩く雨音を遠く聞きながら、夜依は判例データベースを繰っていた。壱はソファで丸くなり、目を閉じていた。眠っているのか、眠っていないのか、その区別が彼にはあまり意味をなさないようだった。

 やがて雨は暴力的になった。

 風が唸り、データ端末の残留信号がノイズとして窓の外を流れた。光の残骸が川のように廊下を這う——そう見えた瞬間、事務所の玄関ドアを何かが叩いた。

 叩いた、というより、倒れこんだ。

 夜依が立ち上がったのと、壱が目を開けたのは同時だった。

 ドアを開けると、少女がいた。

 廊下の床に崩れ落ちた形で、濡れ鼠になっていた。年の頃は十七か十八か。薄い水色のワンピースが肌に張り付き、裸足の足裏に擦り傷があった。傘もなく、荷物もなく、何も持っていなかった。まるで嵐の中から直接切り取られてきたように、その子はそこにいた。

「……よい、さん」

 少女は顔を上げた。夜依と目が合った瞬間、かすかに微笑んだ。

「夜依、さん。いた」

 夜依は動けなかった。

 この少女を知らない。会ったことがない。なのに少女は、まるで長い旅の終わりを見つけたように、夜依の名を呼んだ。

 壱が静かに夜依の隣に並んだ。少女を見た。少女も壱を見た。そして言った。

「ここ、あってる?」

 壱が夜依を見た。夜依は少女を見た。

「——とりあえず、入りなさい」

 少女はひどく軽かった。夜依が肩を支えると、骨の感触が薄くて、思わず力を入れすぎた。ソファに座らせてタオルを渡すと、少女はしばらくそれを眺めてから、ゆっくり頭に乗せた。使い方は分かっている、でも少しだけ考えてから動く。そういう間があった。

「名前は」と夜依は訊いた。

 少女は首を傾げた。

「……わかんない」

「どこから来たの」

「わかんない」

「家族は」

「……わかんない」

 その「わかんない」は、嘘ではなかった。夜依は長年の弁護士生活で、嘘をつく人間の目を見続けてきた。誤魔化す目、隠す目、言葉と視線がずれるときの微妙な焦点の乱れ——少女にはそのどれもなかった。ただ本当に、分からないのだ。

「でも私の名前は知っていた」

 夜依が言うと、少女は少し考えてから頷いた。

「夜依さんのことは、知ってる。ここに来なきゃいけないって、わかってた。でもどうして知ってるのかは……わかんない」

 壱が静かに口を開いた。

「スキャンしていいですか」

 夜依は壱を見た。壱は少女を見ていた。

「記憶スキャン。何があるか、見てみます」

 少女は壱の顔をしばらく見てから、また頷いた。

 壱は上着のポケットから小型の読取端末を出した。かつて記憶鑑定技術者として使っていたもので、今は業務外の使用になるが、壱はそれを手放していなかった。端末の先端を少女のこめかみに近づける。接触はしない。磁気的な近接だけで、記憶の輪郭を読み取る。

 沈黙があった。

 壱の指先がわずかに止まった。

「……先生」

「何」

「空白じゃない」

 夜依は眉を顰めた。壱はゆっくりと端末を離し、少女を見た。少女はキョトンとして、タオルで耳の後ろを拭いていた。

「記憶がない、んじゃなくて」と壱は言った。「ある。でも、閉じてる」

「閉じてる」

「封印です。術式がかかってる。完全に素人の仕事じゃない——かなり精密な、意図的な封鎖。アクセスできない。読めない。でも確かにそこにある」

 夜依は少女を見た。少女は自分のことを言われているのに、他人事のように首を傾けていた。

「ねえ」と夜依は少女に向かって言った。「あなた、自分の名前、本当に分からない?」

「うん。でも」少女はまた少し考えてから言った。「なんかね、千重、って感じがする。気がする、だけだけど」

「千重」

「うん。……あ、でもそれが苗字なのか名前なのかも、わかんない」

 夜依は立ち上がり、窓の外を見た。嵐はまだ続いていた。雨が窓を叩き、光の残骸がデータノイズとともに流れ去る。灯篭は一つも浮かんでいない。

 千重、と夜依は心の中で繰り返した。

 この少女がなぜ自分の名を知っているのか、分からない。会ったことはない。記憶にない。しかしそれを言えば、この少女自身も自分の記憶がない。互いに欠けたものを抱えて、ひとつの雨の夜に引き合った——そう思うと、夜依の胸に奇妙な感覚が生まれた。

 保護しなければ、という感覚ではなかった。

 もっと根の深い何か。この少女をここに置かなければならない、という確信に近いもの。理由はない。理由がないのに確信があるのは、弁護士として危険な状態だと夜依は知っていた。それでも。

「今夜はここにいなさい」と夜依は言った。「嵐が止んだら話を聞く。明日、糸村さんに連絡する」

「糸村さんて」と千重は訊いた。

「この事務所の大家。あなたのことを知ってるかもしれない」

 千重はまた少し間を置いてから、「うん」と言った。その間が、夜依には気になった。知っている、という間ではなく、知らない、という間でもなく——もっと別の何かを、自分の内側に探しているような間だった。

 壱は端末をポケットに戻し、ソファの端に腰かけて千重を見ていた。彼の目に感情はないが、視線には確かな重さがあった。

「先生」と壱は言った。「封印の術式、見たことがあります。記憶鑑定をしていたとき——国が管理する記録アーカイブで、一度だけ。あのときは閲覧不可区分として処理されていた」

「国が管理する、と言った」

「はい」

 夜依は振り返った。壱と目が合った。壱は何も言わなかった。しかし夜依には、彼が何を言いたいのか分かった。

 国が管理する記録アーカイブと同じ術式。この少女の記憶に、それがかかっている。

 嵐の音が遠くなった気がした。あるいは夜依の中の何かが、音より大きくなったのかもしれない。

 千重は気づかないふうに、タオルで手の甲を拭いていた。裸足の足先が、床の上でわずかに揺れていた。まるで水の中の灯篭のように。光があるのに、それがどこから来るのか誰も知らないように。

 夜依はもう一度、少女の顔を見た。

 この子は何を知っている。あるいは、何を知らされないようにされている。

 答えのない問いを抱えたまま、夜依は「お湯を沸かす」とだけ言って、事務所の奥へ歩いた。嵐はまだ終わらない。川の光は消えたまま、今夜は戻らないだろう。

万灯流しと、嘘つきたちの法廷

3

記憶のない少女

朔間 灯子

2026-05-16

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第3話 記憶のない少女 - 万灯流しと、嘘つきたちの法廷 | 福神漬出版