灯京の秋は、光の中で腐る。
高層ビルの壁面に投影された広告の光が川面に滲み、それが橋の上から見下ろすとまるで巨大な花が水底で朽ちていくような色をしている。蒼川礼司はそういう景観を「灯京の美学」と呼ぶらしいが、稲森壱にはただ過剰な光が過剰に反射しているだけに見えた。美しいものを美しいと感じる回路が、自分の中ではとうに摩耗している。
その男が声をかけてきたのは、事務所からの帰り道、七条橋の中ほどだった。
「稲森壱さん、ですね」
振り向くと、グレーのコートを着た三十代半ばの男が立っていた。顔に特徴がない。顔に特徴がないということ自体が、この仕事に就く者の条件なのかもしれない。左の衿元に、灯京検察庁の微細なバッジが光を弾いた。
「話があります。場所を変えましょうか」
壱は答えず、欄干に手をついたまま男を見た。川風が、水の冷たい匂いを運んでくる。
「立ち話で構いません」
男はわずかに眉を動かしたが、すぐに表情を消した。プロだ、と壱は思った。感情を読まれることに慣れている人間の顔をしている。
「では率直に申し上げます」男は声量を落とした。「瀬戸夜依弁護士の動向を、定期的にご報告いただきたい。接触している依頼人、入手した証拠、閲覧したデータの種類。それだけでいい」
壱は黙っていた。
「見返りに、あなたが旧・記憶工学研究所に在籍していた期間の研究記録を、司法の照会対象から除外します。あなたが行ったこと——記憶封印プロトコルの開発への関与——は、現行法では十分に訴追対象となりえる。しかし蒼川検察官は、あなたの才能を惜しんでいる」
川の光が揺れた。
壱は一瞬、目を閉じた。
研究所。白い部屋。自分が設計したコードの、静かな動作音。実験体と呼ばれていた存在たちの、眠るような顔。あの頃の自分は感情が希薄になっていく過程をむしろ好ましいと感じていた。感じなければ、動かせた。感じなければ、続けられた。
「断ります」
声は、自分でも驚くほど平坦だった。
「理由を聞いても?」
「ありません」
男はしばらく壱を見ていた。何かを測るように。壱は視線を川に戻した。光が、腐った花の色をして揺れている。
「後悔なさると思いますが」
「それも結構です」
コートの裾が風に揺れる音がして、やがて足音が遠ざかった。壱は欄干から手を離さないまま、もう少しそこに立っていた。感情の動きを確認するように、自分の胸の内側を探った。恐怖はあるか。後悔は。安堵は。
かすかに、何かがあった。
名前のつけられない、しかし確かに存在する何か。それが「選択した」という感覚に近いものなのだと、壱は思った。夜依の傍にいると、時々こういう感覚が戻ってくる。他人の記憶に触れすぎて磨り減った回路に、彼女の言葉だけが微弱な電流を流すように。
*忠実でいたいわけじゃない*、と壱は思った。*ただ、あの場所に戻りたくないだけだ。*
しかし、その夜。
事務所の全員が眠りについた深夜二時を過ぎた頃、壱は自室の机に薄型の端末を開いた。
パスワードは十七桁。バイオメトリクスと網膜認証の二重ロック。これほどの防壁をかけているファイルは、この端末の中に一つしかない。
ディレクトリ名は「PROJECT_VESSEL」。
壱の指が、しばらく止まった。
ためらいではなかった。あるいはためらいであったかもしれないが、それよりも強い力が指を動かした。研究所の男が現れたことで、自分がどれほどそのファイルを恐れているかを、改めて確認してしまったから。恐れているものは、見ておかなければならない。
ファイルが開いた。
記録は、西暦で言えば十一年前に始まっている。灯京記憶工学研究所・第三実験室。壱が二十歳で配属された部署だ。当時の所長・橘剣一郎の直属で、壱は「記憶封印プロトコル・改良型」の開発チームに加わった。建前は医療目的——トラウマ記憶の安全な封印による精神治療——だったが、実際の用途が別にあることは、半年もしないうちに分かった。
スクロールする。数値の羅列、グラフ、実験ログ。壱の手が作ったコードの残骸が、画面の中で静かに眠っている。
そして、三十七ページ目。
「実験体C-12、女児、推定年齢七歳前後。記憶封印プロトコル第四世代・完全適用。封印率九十八・三パーセント。残存記憶:断片的情動記憶のみ。封印後の自発的記憶形成能力:正常。実験目的:記憶を持たない状態からの人格形成観察、および都市統合記憶プログラムとの適合性検証——」
壱は、息を止めた。
ページに貼付されたホログラム写真を、指が開く。
眠っているのか、あるいは意識を落とされているのか——白いシートに横たわった子どもの顔が、小さく画面に浮かんだ。
明るい茶色の髪。丸い輪郭。わずかに開いた口の端に、今にも笑い出しそうな表情の名残が残っている。
壱の指先が、静止した。
事務所の廊下の向こうで、誰かが寝返りを打つ気配がした。千重が、夜中にトイレへ行く時の、あの間延びした足音とは違う。もっと静かな、夜依の眠りの気配だ。
壱は画面を閉じた。
端末を伏せて、暗闇の中に座った。
七年前、研究所が突然閉鎖されたとき、実験体たちは「研究終了につき適切な施設へ移送」と報告書に記された。壱はそれを信じたかった。あるいは、信じる努力をすることが自分に許された唯一の欺瞞だった。
*C-12。*
その子どもに、今、名前がある。
双葉千重という名前が。
笑い方が不器用で、嘘が顔に出て、記憶を持たないのに前向きに今日を生きようとしている。夜依の淹れたコーヒーを「苦い」と言いながら毎朝飲んでいる。事務所の植物に水をやるとき、必ず話しかけている。
壱は机の上で手を組んだ。
自分が作ったものが、彼女の記憶を奪った。その事実は変わらない。どう選択しようと、何を断ろうと、その事実だけは橋の上に永遠に置いてきたままにはできない。
川の光が、部屋の窓の端にかすかに揺れていた。
腐った花の色で。
壱はしばらくそれを見ていた。やがて、静かに目を閉じた。眠ることはできないだろうと思いながら、それでも目を閉じた。朝が来るまで、この暗闇の中で、自分が知ってしまったことと一緒に座っていることしか、今夜の自分にはできない。
夜依は何も知らない。千重は何も知らない。
壱だけが知っている。
それが何を意味するか——いつ、どのように、誰に告げるべきか——という問いが、消えた灯台の光のように、暗い水の底で揺れ続けた。