朝の光が斜めに差し込む事務所の窓辺で、千重はまた夢の話をした。
「灯京って、呼ばれるんです。声で、じゃなくて、なんか、光みたいな感じで」
夜依はコーヒーカップを口元まで運んだまま、少女の横顔を見た。千重はカーテンの端を指先でつまんで遊びながら、どこか遠い目をしている。陽気な表情の奥に、うまく言語化できないものが澱のように沈んでいる——昨夜、百合江から創設時の記憶改竄を聞かされて以来、この事務所に漂う空気は変わっていた。重いというのでもなく、静かというのでもない。何かが動き始める直前の、水面の張りつめた感触。
「夢なんて、記憶の断片だから」と壱が言った。ローテーブルの上に部品を並べて作業しながら、視線は手元に落としたまま。「千重さんが持ってない記憶が、別のかたちで出てきてるだけかもしれない」
「別のかたち、かあ」千重は小首を傾げた。「じゃあ私の記憶、どこかにあるんですかね」
誰も答えなかった。答えられなかったというほうが正確だった。
呼び鈴が鳴ったのは、そのときだった。
*
依頼人の名は、川瀬 文(かわせ・あや)。四十代の半ば、きちんと糊の利いたジャケットを着ているが、その姿勢には疲弊の色がにじんでいた。膝の上で組んだ手が、かすかに震えている。
「娘が、記憶を持っていないんです」
夜依は向かいのソファに腰を下ろし、顔を上げないよう努めた。千重がお茶を運んでくる気配を背中で感じながら、静かに「続けてください」と促した。
「七歳になります。ホログラム端末の検査を受けるたびに、『記録なし』と出る。生まれつき、と言われて、ずっとそう信じてきたんですが——」女は一度、唇を噛んだ。「先週、偶然見てしまったんです。病院のデータ管理室の前で、国の記章がついた白衣の人間が出てきた。娘の名前を口にしながら」
夜依の背筋が、音もなく伸びた。
「その人間の名前は分かりますか」
「聞けませんでした。でも、端末に触れたとき——私、少しだけ感知できるんです、記憶の気配みたいなものが——その人から、何かとても冷たいものを感じた」
壱が作業を止めた。振り返らなくても分かる。
「娘さんの名前を教えてもらえますか」と夜依は言った。
「川瀬 灯(かわせ・とも)といいます」
窓の外で、灯篭型の端末がひとつ、川風に流されてゆっくりと上昇した。光の粒が尾を引いて、高層ビルの谷間に消えていく。
*
壱が病院のデータを遡るのに、一時間もかからなかった。夜依が川瀬文から聞き取りを続けている間、壱は事務所の奥で静かに端末を叩き、戻ってきたときにはすでに答えを持っていた。
「記録自体はある」
壱の声は平坦だったが、夜依はその平坦さの質が違うことに気づいた。感情が薄いのではなく、感情を呑み込んでいる。
「川瀬灯ちゃんの出生直後の記録が、完全に欠損している。ただし——欠損じゃなかった。上書きされてる。元のデータには、ごく短い時間だけど、記憶の記録が存在した痕跡がある。生後六時間以内に、何かが介入して、消した」
川瀬文が息を呑む音がした。
「消した、というのは」
「回収、というほうが正確かもしれない。データの消去パターンが、通常の削除とは違う。これは——」壱は一拍置いた。「記憶を抜き取って、どこかへ持っていったときの痕跡です」
沈黙が落ちた。
千重は部屋の隅に立っていた。いつもなら場を和ませるように何か言うはずの少女が、黙って壱の言葉を聞いていた。夜依がちらりと視線を向けると、千重の目が細くなっている。何かを探るような、あるいは何かを確かめようとするような目。
「その回収パターン、前に見たことがある」と壱は続けた。「三年前に、別件で記憶データの解析をしていたとき。あのとき俺は『産業廃棄物』のラベルがついたデータ群の中にそれを見つけて、意味が分からなかったから記録だけ残しておいた」
「産業廃棄物」と夜依は繰り返した。
「記憶データを廃棄するときの隠語だと思ってた。でも今見ると違う。これ、収集してる。体系的に」
川瀬文が立ち上がりかけた。夜依は片手を上げてそれを制した。
「落ち着いてください。娘さんの記憶がどこへ行ったか、調べます。ただ——」夜依は依頼人の目を真っ直ぐに見た。「これは、あなたが想定しているより大きな話になるかもしれない。それでも、続けますか」
女は一秒も迷わなかった。「続けます」
*
川瀬文を帰したあと、事務所には三人が残った。夜依はホワイトボードの前に立ち、壱は端末を膝に置いて床に座り、千重はソファの端で膝を抱えていた。
「回収されたのが灯ちゃんだけなら、個人の問題だ」と夜依は言った。「でも壱が三年前に見たパターンが同じなら——」
「プログラムとして存在してる」と壱が引き取った。「国家、あるいはそれに準ずる組織が、特定の条件を持つ新生児の記憶を、出生直後に回収している」
「条件って、何だろう」千重がぽつりと言った。
夜依と壱の視線が、同時に千重へ向いた。千重は膝の上で手を組んで、その手をじっと見ている。
「何かを持って生まれた子、とか」千重は続けた。「あの子みたいに、記憶の感知能力が特別に高いとか、そういう」
「川瀬文さんが感知できると言っていたのを、聞いていたか」と夜依は言った。
「うん。遺伝するのかな、と思って」
千重はそこで顔を上げた。その表情が、夜依には読めなかった。陽気でも、困惑でもない。何か、もっと深いところから来ている顔。
「私のお母さんも、そういう能力があったりしませんかね」
誰も答えられなかった。千重には「お母さん」がいない。記憶がないのだから、当然、親も家族も分からない。
壱が静かに口を開いた。「千重さん、もうひとつ聞いていいですか。事務所に来たとき——俺がはじめて千重さんの記憶データを解析しようとしたとき、覚えてますか」
「読めなかったやつ」千重は少し笑った。「壱さんが変な顔してたから、覚えてます」
「あのとき俺が感じた痕跡、ずっと気になってたんだ。今日、川瀬灯ちゃんのデータを見て——同じだった」
静寂が、事務所に満ちた。川の方向から風が吹いて、窓枠がかすかに鳴った。灯篭端末の光が流れていく。
千重はゆっくりと瞬きをした。
「それ」と千重は言った。声がいつもより低かった。「私のこと?」
夜依は答えなかった。答えのかわりに、千重の目を見た。
千重の目には、恐怖がなかった。驚きもなかった。あったのはただ——腑に落ちた、という表情だった。ずっと足りなかったピースが、静かに埋まるときの顔。
「そっか」千重はひとこと言って、また膝の上に視線を落とした。「だから、名前がないんだ」
その言葉の意味を、夜依は問えなかった。問う前に千重が続けた。
「灯京って夢で呼ばれるのも、そのせいかな。私の記憶が、この街のどこかにあるから」
壱が端末の画面を閉じた。その手が、微かに震えていた。感情が希薄なはずの壱が震えている。夜依はそれを見て、自分の胸の中に何かが収縮するのを感じた。
記憶回収プログラム。
国家による、出生直後の記憶の組織的採取。
そして、名前のない少女。
百合江が言っていた言葉が、夜依の耳の奥によみがえった。——灯京は、嘘の上に建っている。その嘘を維持するために、この街は今もなお何かを食らい続けている。
夜依はホワイトボードに、一行書いた。
「記憶回収プログラム——標的の条件は何か」
ペンを置いて、振り返る。千重はまだ膝を抱えて、窓の外の光を見ていた。川面を流れていく灯篭の軌跡が、少女の瞳に映り込んでいる。
この少女は、ずっとここにいた。最初から。
まるで——待っていたかのように。
夜依は口を開きかけて、閉じた。今は言葉よりも、確かめなければならないことがある。蒼川礼司が「記憶回収プログラム」を知っているかどうか。百合江がその名前を聞いたときどんな顔をするか。そして千重の記憶が本当にこの街のどこかに保存されているなら——それは今も、誰かの手の中にあるということだ。
川から、夜の匂いが漂いはじめていた。