川霧が灯篭型データ端末の光を滲ませ、事務所の窓ガラスに曖昧な虹色を描いていた。

 あれから二日が経つ。

 千重と名乗ることにした少女は、夜依のソファに丸まって眠り続けている。医者を呼ぼうとしたが、少女が「嫌だ」とだけ言った。嘘が下手なくせに、拒絶だけは一切の迷いがなかった。仕方なく夜依は毛布を一枚かけて、それきりにした。弁護士資格が停止されている今、世話を焼く依頼人もいない。余った時間で判例を読み漁るふりをしながら、本当は窓の外を流れる光を眺めていた。

 あの子の記憶は、どこへ行ったのだろう。

 インターフォンが鳴ったのは、午前十時を少し回った頃だった。

 モニターに映ったのは、二十代半ばと思しき青年だった。背が高く、やや猫背。コートの襟を立てているが寒さをしのぐためというより、何かから距離を置くような仕草に見えた。目が、妙だった。感情の読めない、透明すぎる目。

「瀬戸夜依さんの事務所ですね」

 声にも抑揚がなかった。質問のかたちをしているが、確認を求めているわけではない。ただ手順として言葉を並べているような、そういう声だった。

「そうだけど」

「稲森壱といいます。助手として雇っていただきたい」

 夜依は一瞬沈黙した。

「お断りします」

 即答だった。モニターを切ろうとした指を、青年の次の言葉が止めた。

「あなたが三年前に担当した岸田事件、記憶証拠の第四断片に編集点があったはずです。フレームレートの微細な揺らぎと、色温度の〇・〇三度の差異。当時の鑑定技術では検出不可能でしたが、僕には見えました」

 夜依の手が、止まった。

 岸田事件。自分が冤罪を負わされるきっかけとなった、あの裁判。表向きは依頼人の詐欺事件として決着しているが、その判決に至るまでの証拠の山に、夜依はずっと違和感を持ち続けていた。具体的な根拠を言語化できないまま、三年間。

「入って」

 ドアを開けた。

 間近で見る稲森壱は、思ったよりも若かった。二十四か、五か。だが目だけが奇妙に老いていた。年齢ではなく、摩耗の痕跡。多くを見すぎた眼球の、静かな疲弊。

「座って」

 夜依が顎でソファを示すと、壱は机の前の椅子を引いた。ソファに千重が眠っているのを見て、一瞬だけ視線を向けたが、特に何も言わなかった。

「元技術者?」

「元、というか」壱はコートを脱ぎながら言った。「自主的に辞めた、という方が正確です」

「記憶読取の」

「はい。リメモリ社に三年いました」

 夜依は眉をわずかに動かした。リメモリ社。灯京最大手の記憶分析企業であり、司法機関に記憶鑑定サービスを提供している。蒼川礼司が司法改革を推進した際に、全面的な鑑定業務を一手に引き受けた会社でもある。

「なぜ辞めた」

「読みすぎたので」

 壱はそれを、ひどく事務的に言った。まるで残業が続いたので転職した、とでも告げるように。

「読みすぎた、というのは」

「他人の記憶に触れ続けていると」と壱は言った。「自分の感情が、上書きされていきます。薄まる、という感覚が正確かもしれない。最初はわずかでした。誰かの悲しみを読んだ後で、自分が何かを失ったような感覚。やがてそれが積み重なって、ある時点から、自分の内側に何も聞こえなくなった」

 夜依はじっと壱を見た。壱は視線を返した。それが不快ではないのが、夜依には少し意外だった。これだけ感情の読めない目で見つめられて、気にならないとは思わなかった。

「今も聞こえないの」

「はい。概ね」

「概ね、というのは」

 壱は少し間を置いた。その間が、初めて人間らしかった。

「あなたに会いに来ると決めた夜に」と彼は言った。「久しぶりに何かが、揺れた気がしました。確証はありません。感情なのか記憶の残滓なのか、判別できない。ですが揺れた」

 夜依は視線を逸らした。窓の外、川面に流れる光を見た。

「なぜ私に会いに来た」

「あなたの弁論の記録を聴いたからです」

「記録?」

「法廷で提出された音声記録が、データベースに残っていました。リメモリ社在職中に、業務の合間に聴いていた。あなたが弁論しているとき、声の周波数が特定のパターンを持っていた。感情の裏付けのある声の揺らぎ。真実を話している人間の声は、微細な震えが混じります。嘘や演技ではああはならない」

 夜依は唇を引き結んだ。

「つまり」

「あなたの言葉だけが、震えます」

 壱は淡々と言った。感動も感傷もなく、ただ事実の報告として。だからこそその言葉は、不思議なほど真っすぐに夜依の胸に落ちた。

 瀬戸夜依は、かつて自分の弁論を信じることができていた。真実を語っているという確信が、声に乗った。しかし冤罪を経てから、その確信は根こそぎになった。自分の言葉が本当に真実を指しているのか、それとも自分自身が誰かに改竄された記憶を信じているだけなのか。わからなくなった。真実を語っているつもりで嘘をついている人間が、この都市には無数にいる。自分もその一人かもしれない。

 それでも壱は言った。あなたの言葉だけが震える、と。

「採用条件を聞かせて」と夜依は言った。「給料は今は出せない。それでもいい?」

「構いません」

「記憶の読取を頼むことがある。精度はどれくらい」

「公式鑑定の十二倍の解像度で分析できます。ただし」と壱は続けた。「読みすぎると僕の記憶が上書きされる。依頼内容によっては、読んだ後しばらく自分が誰かわからなくなります」

 夜依はその言葉を静かに受け取った。

「それは、怖くないの」

「わかりません」と壱は言った。「怖いという感情があるかどうか、自分では判断できないので」

 どこか、似ていると思った。夜依自身も、感情があるかどうかよりも機能しているかどうかで自分を測るようになって久しかった。傷は種類が違う。だが傷という点では、同じかもしれない。

 ソファの千重がかすかに寝返りを打った。毛布がずり落ちて、夜依は立ち上がってかけ直した。壱がその様子を見ていた。

「あの子は」

「記憶がない」と夜依は言った。「全部。どういう経緯かも、自分がどこから来たかも」

「全部」壱はわずかに繰り返した。「それは珍しい。記憶改竄でも、通常は部分的な削除か上書きです。完全な欠損は技術的に難しい。むしろ」

「むしろ?」

 壱は千重をもう一度見た。その透明な目が、わずかばかり、ほんのわずかだけ、違う色を帯びたように夜依には見えた。

「意図的な封印に近い。削除ではなく、隠蔽。記憶がないのではなく、記憶が、どこかに在る」

 事務所の窓の外を、灯篭型データ端末がひとつ、ゆっくりと流れていった。川の光が天井に揺れた。千重の閉じた瞼が、光の中でかすかに動いた。夢を見ているのかもしれない。あるいは見えない場所に閉じ込められた何かが、まだそこで息をしているのかもしれない。

「明日から来て」と夜依は言った。「九時でいい」

「わかりました」

 壱は立ち上がり、コートを手に取った。ドアに向かう背中に、夜依は声をかけた。

「稲森くん」

「はい」

「岸田事件の編集点。あなた以外に、気づいた人間はいた?」

 壱はドアの前で止まり、振り返った。

「いませんでした」と彼は言った。「だから誰も、告発しなかった」

 ドアが閉まった。

 夜依は自分の手を見た。指先が、わずかに震えていた。寒さではない。怒りでも悲しみでもない。それが何であるか、三年ぶりに、名前をつけようとする気持ちが、指の先に灯っていた。

万灯流しと、嘘つきたちの法廷

2

壊れた読み手

朔間 灯子

2026-05-15

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第2話 壊れた読み手 - 万灯流しと、嘘つきたちの法廷 | 福神漬出版