川が燃えていた。

 正確には、川面を流れる無数の灯篭が、夜の水を金色に溶かしていた。万灯流し。灯京の建都を祝う年一度の祭礼。高層ビルの谷間を縫うように流れる錦糸川に、市民が思い思いの願いを込めた灯篭型データ端末を流す夜。河岸は人垣で溢れ、橋の欄干には子供たちがよじ登り、空には見物用の無人飛翔体が幾十も浮かんでいた。

 瀬戸夜依は、その喧騒から一歩引いた場所に立っていた。

 一週間。記憶芸術家・朔永ヨルの事件に費やした日数だった。

 朔永は灯京でも指折りの記憶芸術家だった。他者の記憶ホログラムを素材として再構成し、美術作品として発表する——その新興芸術ジャンルの第一人者。しかし先月、若手芸術家の鹿島ツルが死んだ。彼女の最後の個展は、彼女自身の記憶で作られた作品が盗作であるという告発で幕を閉じ、その三日後に錦糸川に浮かんだ。

 当初の容疑は自殺だった。しかし遺族が依頼を持ち込んだ。鹿島ツルは死の直前、ある記憶ホログラムを夜依の事務所宛に送っていた。

 そのホログラムが、すべてを変えた。

 「先生」と壱が隣に立った。橋の上から見下ろす川面が、彼の眼鏡に無数の光点を映していた。「蒼川検察官の方は」

 「問題ない」

 夜依は短く言った。実際は問題だらけだったが、今夜ここで口にすることではなかった。

 証拠は揃っていた。朔永ヨルが、鹿島ツルの独創的な記憶素材を無断で「引用」し、自身の代表作の基盤に使っていたこと。そして告発の出所が朔永自身であること。鹿島の才能が自分を超えつつあることを察知した朔永が、先手を打ったのだ。彼女の作品を「盗作」と告発することで、彼女の評価を地に落とし、追い詰めた。

 記憶ホログラムに残っていたのは、鹿島ツルが最後に見た光景だった。朔永のアトリエ。彼が壁に貼り付けた、膨大な記憶素材の残滓。その中に、紛れもなく彼女自身の記憶が含まれていた。

 「本人は認めましたか」

 「認めるわけがないわ」夜依は川風に前髪を押さえながら言った。「でも認めさせる必要はなかった。ホログラムが語った。記憶は嘘をつかない——少なくとも、改竄していなければ」

 その言葉が、少し苦くなったことに気づいたのは夜依自身だった。記憶は嘘をつかない。かつて自分もそう信じていた。信じていたからこそ、あの日の法廷で、自分自身の記憶証拠が自分を断罪した時、世界の床が抜けたのだ。

 蒼川礼司の姿が、脳裏に一瞬よぎった。

 今回の裁定公聴会で、彼は傍聴席に座っていた。何も言わなかった。ただ、夜依が証拠ホログラムを提出した瞬間、その端整な顔にわずかな表情が動いたのを見逃さなかった。驚きでもなく、失望でもなく——値踏みするような、冷静な関心の色だった。

 彼はまた、何かを見定めている。

 「夜依さーん」

 橋の手前、人波の中から千重の声が聞こえた。

 双葉千重が、屋台で買ったらしい紙製の灯篭を両手で持って走ってきた。蛍光橙色の浴衣——百合江が押し付けたものだ——がひどく似合っておらず、本人はまったく気にしていない。

 「流していいですか、これ。百合江さんが分けてくれたんですけど」

 「好きにしなさい」

 「じゃあ壱さんも一緒に流しましょう。ほら」

 「僕はいい」

 「なんで」

 「願い事がない」

 千重が一瞬、壱の顔をじっと見た。それから「そっかあ」と言って、さほど傷ついた様子もなく川岸の段差へ向かった。壱が願い事を持たないことも、千重はもう知っているし、責めない。この三人はそういう均衡を、ゆっくりと築きつつあった。

 夜依は欄干から身を乗り出し、千重が灯篭を水面に置くのを見ていた。

 灯篭は橙色の光を湛え、川の流れに乗って漂い始めた。千重がその背中を見送るように、川岸にしゃがみこんでいた。祭りの喧騒が遠くなるような、不思議な静けさが千重の周囲に生まれていた。

 そして千重が、動きを止めた。

 ゆっくりと顔を上げ、川面の中程を凝視した。何かが、彼女の視線を縫い止めていた。

 「あの灯篭、知ってる」

 壱が先に気づき、夜依を呼んだ。

 夜依は段差を降り、千重の隣にしゃがんだ。千重の視線を追った。川の中程に、見慣れない形の灯篭が漂っていた。市販品ではなかった。六角形の胴体に、古い様式の家紋風の意匠が刻まれた、手作りらしい古風な灯篭。光の色が他と違った。澄んだ白——祭りの灯篭の橙や赤ではなく、月光に近い白だった。

 「知ってるって、どういうこと」夜依は静かに聞いた。

 「わからない」千重は瞬きもせずに答えた。「でも、知ってる。前に、見たことがある。……気がする」

 前に。千重には記憶がない。自分がどこから来たのかも、本当の名前すら定かでない少女が、「前に見た」と言っている。

 「その灯篭に、何が入ってると思う」

 「わからない。でも」千重は眉を少し寄せた。「怖くない。怖くないのに、泣きそう」

 灯篭は流れに引かれ、橋の下へと消えていった。千重はしばらく、その消えた先を見つめ続けた。

 夜依は立ち上がり、橋の上を振り返った。

 そこに、糸村百合江が立っていた。

 いつからそこにいたのか、わからなかった。杖をついた小さな老いた体が、橋の欄干のそばに静止していた。彼女の視線は千重に向けられていた。千重が灯篭を「知っている」と言った瞬間を、百合江は見ていたはずだった。

 百合江は何も言わなかった。

 ただ、静かに目を閉じた。

 その表情を夜依は読めなかった。悲しみとも、安堵とも、懺悔とも見えた。あるいはそのすべてが、あの皺深い顔の奥に折り畳まれているのかもしれなかった。灯京創設期を知る女が、記憶を持たない少女を見つめる目。

 夜依の中で、何かがゆっくりと動いた。

 朔永ヨルの事件は解決した。鹿島ツルの死の真相は法廷に提出される。それで終わりのはずだった。しかし終わらない何かが、今夜この川面に浮かんでいる。

 壱が夜依の隣に立った。

 「あの灯篭」彼は低い声で言った。「形式が古い。灯京開都期の様式に近い」

 「わかるの」

 「記録で見たことがある。四十年前の万灯流しの写真。市の公式記録からは削除されているものだけど」

 削除された記録。改竄された記憶。

 夜依は川面を見た。白い光はもうどこにもなかった。無数の橙が揺れているだけだった。祭りは続き、人々は笑い、灯篭は流れていく。この街の夜は美しい。美しすぎるほど美しい。だからこそ、その底に何が沈んでいるかを、誰も問おうとしない。

 千重が立ち上がった。浴衣の袖をぎゅっと握りながら、夜依を見上げた。

 「あの灯篭のこと、調べますか」

 「ええ」夜依は答えた。

 それだけで十分だった。千重は頷き、また川面に視線を戻した。

 橋の上、百合江はもうそこにいなかった。

 祭りの光の中に溶けてしまったのか、あるいは最初からいなかったのか——夜依にはわからなかった。ただ、あの閉じた目の意味が、今夜から自分の胸に棲みつくことだけは確かだった。

 川は流れ続けていた。白い灯篭がかつて灯した光の記憶を水底に沈めながら、灯京の夜を粛々と下っていた。

万灯流しと、嘘つきたちの法廷

15

第一幕の閉幕――万灯流しの夜

朔間 灯子

2026-05-28

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