川面に漂う灯篭型データ端末が、窓硝子に橙色の模様を描く夕刻のことだった。
千重が、台所の椅子に腰かけたまま、唐突に言った。
「ねえ、夜依さん。嘘ってなに?」
夜依は手元の書類から視線を上げなかった。朱鷺野案件の証拠整理はまだ途中で、神楽野鏡介の所在についても壱が調査中だった。問いに答える余白などないはずだった。
だが指が止まった。
「どうして急に」
「だって」と千重は続けた。「わたし、嘘をついたことがあるのかどうか、わからないから。記憶がないから。でも、嘘をついていたとしたら、わたし悪いひとだったのかなって思って」
陽の落ちかけた事務所に、その問いはやけに静かに広がった。壱はデスクの向こうで作業の手を止め、老いた百合江が隣室から暖簾をくぐって出てきたのは、おそらく偶然ではなかった。
「嘘の定義か」と夜依は書類を伏せた。「難しい問いを立てるじゃない、千重」
「簡単だと思って聞いたんだけど」
「簡単じゃないのよ、これが」
夜依はソファに深く背を預け、天井を見上げた。川面の光が揺れるたびに、天井のそれも揺れた。
「法律上の定義でいえば、嘘とは事実に反する陳述を、相手を欺く意図をもってすることよ。意図がなければ嘘じゃない。単なる誤りになる」
「じゃあ、知らないで嘘をついたら?」
「それは嘘じゃない」
「でも相手は傷つく」
「傷つくかどうかと、嘘かどうかは別の問題」
千重は少し眉を寄せた。納得しているようでいて、していないような顔だった。
「壱は?」
問われた壱は、端末の画面から顔を上げた。薄い顔立ちに、この時間の橙が落ちていた。
「俺の定義は」と彼はゆっくり言った。「自分の記憶と、出力する言葉が、ずれていること」
「出力?」
「言葉にする、ということ。頭の中にあることと、口から出ることが食い違えば、それが嘘。意図があってもなくても」
夜依が口を開こうとしたが、壱は続けた。
「ただ、人の記憶は常に揺れている。昨日正しかったことが今日は歪んでいることもある。だとすると、誰もが無数の嘘を無自覚に吐いていることになる。嘘と記憶の話は、切り離せない」
この都市ではとりわけ、と彼は付け加えなかったが、全員がそれを聞いた。
千重は小さく「ふうん」と言って、百合江のほうを向いた。
「百合江さんは?」
百合江は暖簾の前で腕を組んだまま、しばらく黙っていた。事務所の大家を長年務めるこの老齢の元裁判官は、軽率に言葉を使わない人間だった。
「嘘というのはね」と百合江はやがて言った。「本当のことを、言わないでいることよ」
誰も、すぐには返さなかった。
「積極的に偽りを述べることより、真実を隠すことのほうが、深い嘘だと思っとる。裁判官をやっておった頃に学んだことよ。法廷では、喋った言葉より、喋らなかった言葉のほうが、ずっと多くを語る」
「それって」と千重が言いかけ、止まった。「じゃあ、記憶がないわたしは、真実を言えないから、ずっと嘘をついてることになる?」
「違う」と百合江はきっぱり言った。「知らぬことは隠せぬ。隠せぬものは嘘にならぬ」
千重は少し安堵したような顔をしたが、夜依には、その安堵が少しも腑に落ちていないように見えた。千重は納得したいのではなく、許されたいのかもしれない——何かを、どこかで、すでにしてしまったことを。
夜依は、自分の定義をまだ言っていないことに気づいた。千重が「夜依さんの答えは?」と促すように目を向けた。
「わたしは」と夜依は言った。「嘘とは、自分を守るために現実を塗り替えることだと思ってる」
沈黙が戻った。
「塗り替える?」
「たとえば、本当のことが怖くて、別の形に変えて記憶する。あるいは、誰かに信じてほしくて、事実より少しだけ美しい話をする。それは相手を騙す前に、まず自分を騙している。記憶の改竄と嘘は、そういう意味では、根が同じよ」
壱の指が微かに動いた。夜依はそれを見なかったふりをした。
「じゃあ」と千重が言った。「嘘をついたことのない人間は、いないってこと?」
「たぶん、いない」
「悲しいね」
「そう?」
「だって、みんな何かを怖がって生きてるってことじゃない」
夜依は答えなかった。答えられなかったのかもしれない。千重の言葉は、ときどきこうして、鎧の隙間に静かに入ってくる。
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その夜は遅くまで作業が続き、千重がソファで眠り込んでしまったのは、日付が変わる少し前だった。壱は端末の光に照らされたまま、まだ神楽野の行方を調べていた。夜依はすでに奥の部屋に引き上げ、百合江の気配は暖簾の向こうで消えていた。
事務所に残っているのは、壱と、眠る千重だけだった。
川の灯篭端末が一つ、窓の近くを漂い過ぎた。橙色の光が、千重の頬を短く照らした。
壱は画面を眺めながら、何の気なしに千重のほうを見た。
彼女の唇が、微かに動いた。
「……わたし、」
壱の指が止まった。
「ここに、いては、いけない」
声というより、吐息に近かった。寝言だと分かるほど、薄く、かすかだった。だが壱の耳はそれを、逃さなかった。
彼は動かなかった。
左手の端末には記録ボタンがある。押せば音声が保存される。壱が日常的に行っていることだった。依頼人の発言を、証人の反応を、廊下の足音さえも——彼は記録することを習慣にしていた。他人の記憶に触れすぎて自分の内側が空洞になっていった頃から、記録することが唯一の現実の把握方法になっていた。
指が、ボタンに触れた。
触れたまま、押さなかった。
千重はそれ以上何も言わず、穏やかな寝息の中に戻った。その顔は、起きている時と同じように、どこか心許なかった。記憶を持たない者の眠りというのは、どんな夢を見るのだろうと壱は思った。夢も記憶の一形態だとすれば、彼女の夢は何で出来ているのか。
壱はボタンから指を離した。
記録しない。
その選択が、何を意味するのか、壱自身にはまだ言葉がなかった。ただ、この言葉を誰かに渡してはいけないという感覚だけがあった。感覚——それが久しぶりに自分の中に生まれたことに、壱はかすかに戸惑った。
川面に浮かぶ無数の灯が、揺れている。
千重は眠っている。
壱は端末の画面を消し、暗い事務所の中で、彼女が言った言葉を一人で抱えた。
ここにいてはいけない。
その言葉が、誰に向けられたものなのか。自分に言い聞かせているのか、それとも——誰かに、昔、そう言われたのか。
壱には分からなかった。
分からないまま、記録しないことを選んだ自分が、今夜初めて、少しだけ人間に近い何かをしたような気がした。それが正しいことかどうかも、まだ分からなかった。
灯京の夜は深く、川の光だけが静かに揺れ続けた。