夜の工場区画は、息を殺している。
昼間、あれほど喧しく回転していた仮面加工の機械音も、今は完全に止んでいた。通路の壁面に埋め込まれた発光パネルが青白い光を規則正しく放ち、居住区画の廊下はどこまでも同じ顔をして続いている。白瀬透は自室の扉に背を預け、しばらくのあいだ動かなかった。
心拍数の管理チップが、わずかに警告域に近づいていた。気づいたのは感覚ではなく、右耳の奥で鳴る微細な振動音だった。落ち着け、と透は自分に言い聞かせた。ただ疲れている。それだけだ。工場での一日は長く、工程は単調で、人は消耗する。それで心拍数が上がることなど、ありふれている。
自分に言い聞かせながら、透は作業着のポケットに手を入れた。
指先に、ひんやりとした硬質の感触が触れた。
あの仮面が、そこにある。
透は扉から離れ、部屋の中央に立った。天井から吊り下げられた照明は、最低限の輝度に落とされている。六畳にも満たない居室に、備え付けの寝台と小机と収納棚。規格化された家具は、どの居住区画を訪れても同じ配置で置かれていた。個性の余地など、初めから設計に含まれていない。
透は机の前に座り、仮面をゆっくりと取り出した。
月明かりのような光を帯びた白い面。輪郭は工場で量産される標準型と変わらない。しかし昨日から何度見ても、その中心を斜めに走る亀裂が透の目を引いた。亀裂に沿って、何かが刻まれている。製造コードにしてはあまりに細かく、あまりに古い字体だった。
透は机の引き出しを開け、奥に押し込んでいた端末を引き出した。廃棄品の回収区域で拾った旧型の携帯端末で、管理ネットワークには繋がっていない。感情管理省の監察が定期的に行う電子機器の検査では、オフライン端末は検査項目外とされている。少なくとも、今年の通達にはそう書かれていた。
端末の電源を入れると、古い起動音が小さく鳴った。透は思わず肩をすくめ、音量を最小にした。
仮面の亀裂をカメラで撮影し、画像解析のアプリケーションを起動する。旧型のそれは処理に時間がかかった。砂時計のアイコンが回転するあいだ、透は仮面を手の中で裏返したり表に戻したりしながら、亀裂の模様を目で追い続けた。細い線が網目状に絡み合い、一見すると単なる破損にしか見えない。だが透には、それが意図的な痕跡のように感じられた。なぜそう感じるのか、理由は説明できなかった。
解析が完了した。
端末の画面に、波形のグラフが展開された。
透は画面を見つめたまま、しばらく息を忘れた。
工場の検品作業で毎日目にする感情波形とは、まるで異なるものだった。感情波形は通常、緩やかな正弦波に近い形を描く。喜びは穏やかな山なり、悲しみは低い谷、怒りは鋭いスパイク。管理チップが認識し、数値に変換できるよう、すべての感情は標準波形に分類されている。透はそれを何千回と確認してきた。
しかし今、画面に広がっているのは、既存のどの波形にも似ていなかった。複数の周波数が複雑に重なり合い、螺旋を描くように絡み合っている。強弱の変化は規則的ではなく、しかし無秩序でもない。まるで言語のように、固有のリズムを持っていた。
透は感情照合データベースを開き、検索を試みた。
一致するコードが存在しません、という表示が出た。
もう一度。範囲を広げて、近似値での検索を試みる。
一致するコードが存在しません。
透は検索条件を変え、類似波形の上位十件を表示させた。最も近いとされた波形でも、類似度は十二パーセントしかない。
これは何だ。
問いが透の胸の中で形を作った。感情管理省が定める感情の種類は、現行規格で四十七種類。そのいずれにも当てはまらない波形が、なぜ仮面に刻まれている。
端末の検索履歴を参照しながら、透は別の切り口を探った。波形の発生源を特定しようとしたとき、解析データの末尾に付属していた数値列が目に入った。日付の形式に見えた。
2083.11.04。
百年以上前。
透は数値を照会した。旧型端末が接続できる公開アーカイブは限られていたが、年代の数値は何かに引っかかった。検索窓に打ち込む。数秒の静寂の後、断片的なデータが表示された。
「感情廃止令・施行記録(部分)」
透の指が止まった。
廃止令。感情の、廃止。
文書の大半は暗号化されており、内容を読むことはできなかった。しかし断章として残っている数行が、かろうじて文字を保っていた。
「……以下の感情コードを都市管理システムから削除し、以降の発生を完全に禁止する。これらは人的秩序の維持に有害であり、個体の自律を過剰に促すと判断されたため……」
そこで文章は途切れ、次の行は黒く塗りつぶされていた。
透は画面を拡大した。塗りつぶしの端、わずかに滲んだ箇所に、一語だけ読み取れる文字があった。
渇、と書かれていた。
渇。
透は声に出さずに、口の形だけでその文字を作った。渇き、渇望。知らない言葉ではなかった。水分補給の文脈で使う語として、義務教育の語彙表にも載っていた。しかし今、この文書の文脈で浮かび上がるそれは、もっと別の意味を持っているような気がした。感情の、渇望。
何かが、透の内側で波打った。
それは警告とも衝動とも違う。管理チップが出す規定の信号ではない。もっと原初的で、境界線の曖昧な揺らぎだった。かつて感じたことがあるようで、しかし言葉を持ったことは一度もなかった、あの感覚。
仮面を工場で手に取ったとき。亀裂に指が触れたとき。あのとき透の胸を過ぎったもの。
それはこれだったのかもしれない、と透は思った。
端末の画面を見つめたまま、透はしばらく動けなかった。百年前に消されたはずのものが、目の前に残っている。廃止令が削除しようとした感情の残骸が、仮面の亀裂に暗号として刻まれている。誰が刻んだのか。なぜ仮面に。なぜ今、自分の手元にあるのか。
問いが次の問いを呼んだ。連鎖は止まらなかった。
透はその感覚に、怯えていた。しかし同時に、それを手放したくないとも思った。怯えと引力が、胸の中で奇妙な均衡を保っていた。
管理チップが再び振動した。感情値の上昇を告げる信号。透は深呼吸をひとつ落とし、意識的に肩の力を抜いた。チップを欺くことは難しいが、表層の数値を抑えることは、長年の習慣で身についていた。
端末の電源を落とし、仮面を引き出しの奥に戻す。部屋の照明をさらに落とし、寝台に横になる。目を閉じる。
しかし暗闇の裏側に、螺旋状の波形が浮かんで消えなかった。
百年前、感情管理省が消したものの名前。
渇望。
その一語が、透の意識の奥に、静かに根を張り始めていた。
——どこかで、誰かが記録をつけている。透は知らない。しかし夜の都市カガミアのどこかで、別の手もまた同じ波形のことを考えて、ノートのページをめくっている。