午前五時四十二分。感情管理省の中央監視塔は、夜明けを知らない。
ドームの外には太陽が存在するはずだが、カガミアの市民の大半はその光を直接見たことがない。天井を覆う人工採光パネルが刻一刻と色温度を調整し、朝の訪れを告げる。だが漣 庸介にとって、一日の始まりを知らせるのは窓の光ではなく、眼前のモニター群が白く明滅する瞬間だった。
幅三十メートルの湾曲したスクリーンが、夜間のデータを引き継ぐように起動する。一万六千もの光点が一斉に瞬いた。それぞれの点が、生きている人間の感情値だ。
漣は革張りの椅子に深く沈みながら、その光の布地を眺めた。四十七歳。感情管理省第三監察局の主任監察官。二十一年のキャリアを持つ熟練者として、彼の目は訓練によって研ぎ澄まされている。あの一万六千の点のうち、どれが平常域を外れているか、数秒も見ていれば大まかに把握できた。
それは美しいとは言えなかった。しかし壮観ではあった。
「庸介さん、昨夜の集計データが上がってきました」
隣の席から若い部下が声をかける。漣は視線をモニターから外さないまま、右手を軽く挙げた。了解の合図だ。管理省内では感情表現の過剰な浪費を避けるため、言語的やり取りは最小限に抑えられる。ここで働く者はみな、言葉を節約することを美徳と教わっている。
漣はデータパッケージを受け取り、内容を展開した。
感情管理システム、通称「ミラーネット」は、市民全員の皮膚下に埋め込まれた感情チップから、一秒あたり平均十二回のサンプリングを行う。心拍数、皮膚電気反応、瞳孔径、神経電位の微細な揺らぎ——それらを複合的に解析し、七つの公認感情カテゴリに分類したうえで数値化する。平穏、満足、期待、軽度の疲労、軽度の不安、集中、安堵。これが市民に許された感情の全域だ。
かつては喜怒哀楽と呼ばれたものが、百年の歳月をかけて「七つの許容感情」へと再定義された。憤怒は「制御不能な神経過負荷」として記録される違反行為。悲嘆は「過剰な自己中枢刺激」として医療介入の対象。そして——渇望。
漣の指が、キーボードの上でほんの一瞬だけ止まった。
渇望は、七つの禁忌感情の筆頭だった。カガミア設立以来、最も厳しく管理されてきた感情。それが他の違反感情と異なるのは、チップによる数値化が困難だという点にある。渇望は特定の神経回路に紐付かず、感情の連鎖として発生する。あたかも水が岩の隙間を縫うように、既存の分類網をすり抜けてしまうのだ。
だからこそ最も危険とされている。
漣は昨夜のデータをスクロールし始めた。異常値の検出には段階がある。まず自動アルゴリズムが一次スクリーニングを行い、閾値を超えた事例を人間の監察官へ引き渡す。漣が扱うのは、アルゴリズムが「要確認」と判定したものだけだ。
今朝の要確認案件は四十一件。例年並みだった。
彼は機械的に処理を進めた。三件目は夜間の睡眠障害による不安値の上昇。医療部門へ自動転送でよい。七件目は夫婦間の軽度摩擦——これは社会調整局の案件だ。十三件目は……
漣の指が、また止まった。
工場区画E-7。午後二十二時十一分から二十二時四十八分にかけて、単一の発信源から断続的な感情値の揺らぎが検出されている。問題は、その波形だった。
既存のどのカテゴリにも、綺麗に収まらない。
七つの許容感情のいずれかに「近似」しているが、そのどれとも微妙にずれている。アルゴリズムは最終的に「軽度の不安・要観察」と分類したが、漣の目にはその分類が正確でないことがわかった。不安特有の交感神経系の緊張が、この波形には欠けている。代わりにあるのは——なんと表現すればいいのか——内側へと向かう、静かな燃焼のような波形だった。
「……」
漣は声を出さず、データをコピーしてサブモニターへ移した。周囲に気取られないよう、素早く、しかし平静を装って。二十一年の職業生活が培った習慣だ。
発信源の座標を確認すると、工場区画E-7の集合住宅棟に紐付けられていた。住民リストを開く。十四室、二十二名の登録情報が展開される。漣はその名前を上からゆっくりと走査したが、特定の個人を示す際立った情報はまだない。
問題の感情波形の発生時刻を改めて確認する。夜間の自由時間帯。つまりこれは職場での出来事ではなく、個人の居室で生じたものだ。
居室内での感情値は、公共空間と比べて監視密度が若干低い。それはカガミアの設計が「プライバシーの幻想」を市民に与えることで安定を保つという思想に基づいているからだ——もっとも、漣は長年の勤務でその「幻想」の実態を熟知していた。居室内もまた、完全に監視されている。ただし解析の優先度が低いだけで。
この波形は、通常なら見落とされていた。自動アルゴリズムが拾い上げたのは、連続性と強度がある一定の閾値を超えたからだ。
漣は要確認案件の処理欄に「軽度の不安・経過観察。翌日の勤務データとの照合を推奨」と入力した。それ以上でも以下でもない、標準的な対応。誰の目にも、熟練した監察官の淡々とした業務処理に見えるはずだ。
しかし彼の左手は、机の引き出しへと伸びていた。
引き出しの奥に、一冊のノートが眠っている。表紙には何の記載もない。黒い布張りの、ごく平凡な手帳。だが漣がそこに書き記す文字は、感情管理省のどのデータベースにも接続されていない。独自の暗号を用いた、彼だけの言語で書かれた記録だ。
始めたのはいつだったか。入省から三年目の冬だったと思う。ある案件を処理する中で、漣は自分が何かを——確かに「感じた」と気づいた。それは許容感情の範疇に入るものではなかった。名前のつけようのない感覚が、胸の奥で火種のように燻った。彼はその夜、規則に従ってチップのデータを確認し、「軽度の疲労」と処理した。しかしそれは嘘だと、自分でわかっていた。
以来、漣は記録をつけている。
本日の日付を書く。そして今朝の波形について、三行だけ記した。
——工場区画E-7。既存分類不適合の感情波形。渇望ではない。しかし、渇望に最も近いと感じる波形を、私はこれまで二度しか見たことがない。
ペンを止め、漣は天井を仰いだ。
二度。一度目は十四年前、地下廃墟の探索中に拘束された市民から検出されたもの。その市民は翌週、感情矯正プログラムへ送られ、以後のデータは閲覧制限がかかった。二度目は——七年前、アルマ執政官の直属研究機関から流出した内部資料に記録されていたものだ。漣はその資料を、本来なら見られない立場で、ある偶然から目にした。
彼はノートを閉じ、引き出しに戻した。鍵をかける。この鍵の合鍵は存在しない。合鍵を作れるのは漣だけであり、彼はそれを決してしなかった。
モニターへ視線を戻す。一万六千の光点が、依然として瞬いている。
漣は次の案件へと処理を進めながら、頭の片隅でE-7の波形を反芻し続けた。それが誰の部屋から発せられたものか、まだ特定していない。する必要があるかどうかも、まだ判断していない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
あの波形は、何かが——始まった波形だ。
ガラスの都市は今日も完璧に光を反射し、市民の感情を透明な数値へと変換し続ける。しかし漣は知っていた。透明なものにだけは、必ず死角が生まれる。
それは、ガラスの本質だ。