昼の食堂は、いつも光の檻だった。
天井から床まで続くガラス張りの壁が、外の人工光を幾重にも反射して、食事をする者の輪郭をすりつぶす。白瀬透はトレイを持ったまま、その光の洪水の中に立ち尽くした。視線の行き場が見つからない。どこを向いても、自分の仮面が映る。あの端正に整えられた、感情値「安定」を示す薄青の仮面が。
工場の食堂は、管理省が定めた規格どおりに設計されていた。席と席の間隔は七十センチ、会話は六十デシベル以下、食事中の感情波形は「満足」の範囲に収まること。チップが常時それを確認し、逸脱があればすぐに記録される。透は空いている隅の席を選んで腰を下ろし、支給された合成タンパクのプレートに目を落とした。
見た目は食事だった。ただ、味に名前がない。
「透、ここ座ってもいいか」
声をかけてきたのはハルだった。白瀬透と同じ第三ラインに配属された同僚で、仮面の縁がわずかに磨耗しているのが遠目にもわかる古参の工員だ。透が小さく顎を引くと、ハルはトレイを置いて向かいの席に座り、当たり前のように喋り始めた。
「昨日さ、第七ラインの連中から変な話聞いたんだよ」
透は合成タンパクを口に運びながら、何も言わなかった。ハルは構わず続ける。
「地下に、改造屋がいるって」
フォークが、かすかに止まった。
「改造屋」とハルは声を落として繰り返した。食堂の騒音に紛れ込ませるような、意図的な音量だった。「仮面をさ、非公式に調整してくれる技師がいるらしいんだよ。感情値のリミットを緩めたり、波形の記録をある範囲だけ書き換えたり。チップが感知できないくらい、精巧な細工をするんだって」
「都市伝説だろ」
透は言った。平坦な声だった。
「そりゃそうかもしれないけどさ」ハルは肩をすくめた。「でも第七ラインのシュウは、実際に会った人間を知ってるって言うんだよ。三層下の廃区画に出入り口があって、決まった合言葉を使うと通してもらえるって」
「シュウが作り話をしてるんだ」
「かもな」
ハルはあっさりと笑い、合成タンパクを口に押し込んだ。それ以上その話を掘り下げようとはしなかった。透も、しなかった。
けれど。
食堂を出て、午後のラインに戻るまでの短い廊下を歩きながら、透はその言葉を反芻していた。頭の片隅で、何かが引っかかり続けている。釘を踏んだときの感覚に似ていた。痛みではなく、異物の存在を確認する、あの鈍い感触。
*感情値のリミットを緩める。*
波形の記録を書き換える。
透は制服の胸ポケットに触れた。工場の床で拾ったあの亀裂入りの仮面の欠片は、今はアパートの引き出しの奥に眠っている。解析結果を記したメモと一緒に。百年前に削除された感情の波形。「渇望」という、一語とともに。
都市伝説を信じているわけではなかった。
ただ、笑い飛ばすことも、できなかった。
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夜の帰り道は、いつも静かに騒がしい。
カガミアの夜間照明は昼間の直射光とは異なり、建物のガラス壁の内側から淡く滲み出す発光素材によって街全体を均一に照らす。影が生まれない設計だ。どこにも暗がりがないから、逃げ場もない。市民は皆、その光の中を粛々と移動し、感情チップは正常稼働を示す緑の信号を出し続ける。
透は第十二居住区への通路を歩いていた。
角を曲がると、ガラス張りの外壁が両側に並ぶ細い区間がある。採光効率を最大化するために設計された構造で、壁と壁の間を歩くと、自分の姿が何十にも重なって映り込む。透はその区間が好きではなかった。どの像が本物の自分なのか、一瞬わからなくなるから。
足を踏み入れた瞬間、反射した自分の仮面たちが左右に広がった。
歩く。
十歩目で、透はわずかに眉根を寄せた。
何かが、おかしい。
鏡の中の自分の像が、いつもより一つ多い。
いや、違う。自分の像の中に、一つだけ、異質なものが混じっている。
その仮面の形が、違った。
透は立ち止まった。
右側のガラス壁、自分の像が幾重にも重なる中の一つ、斜め後方の反射像の中に、それはいた。透の薄青の仮面ではない。線の細い、白に近い銀色の仮面。顎のラインに沿った精巧な縁取りが、カガミアの規格品とは異なる美しさで形作られている。
透は振り返った。
誰もいなかった。
通路は無人だった。どちらの方向にも、市民の姿は見えない。光だけが、等しく壁から滲み出している。
もう一度ガラス壁を見た。反射の中には、透自身の薄青の仮面だけが何重にも並んでいる。先ほどの銀色の仮面は、どこにもない。
透は自分のチップを確認した。感情波形は「平静」を示している。問題なし。幻覚が出るような薬物摂取もない。何かが誤作動を起こしているのか、それとも自分の目が——
*目が、見たのだ。*
確かに、見た。
銀色の仮面をつけた、誰かを。
透はしばらく通路の真ん中に立ち尽くし、左右のガラス壁を交互に見つめた。どの反射面にも、もうその像は映っていない。夜の均一な光だけが、透明に満ちている。
やがて透は歩き出した。早足ではなかった。感情チップに異常を記録させないために、ゆっくりと、いつも通りの歩幅で。
頭の中では、午後の食堂でハルが囁いた言葉が、あの亀裂入りの仮面の波形と、静かに絡み合い始めていた。
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アパートに戻った透は、引き出しを開けた。
仮面の欠片が、そこにある。
百年前の感情波形。「渇望」という名前の、削除された感情。
捨てるべきだと、思う。これを持ち続けることは、リスクだ。感情管理省の監察官が家宅を調査すれば、一発でアウトだ。実際、透の父の世代には、そうして処分された者が何人もいたと聞く。
けれど。
手が、動かなかった。
透は欠片を引き出しから取り出し、掌の中で静かに握った。亀裂の感触が指に伝わる。古い素材の、乾いた硬さ。百年前にこれを作った人間の手の温度は、とうの昔に消えている。それでも、この形は残った。この波形は残った。削除されたはずの感情の記録が、ここに在り続けた。
*渇望。*
透は、その言葉を声に出さずに唇の形だけで作った。音にならない一語が、暗い部屋の中で解けていく。
ハルの話にある「地下の改造屋」が本当に存在するとして。仮面の記録を精巧に書き換えられる技師が存在するとして。そして今夜、ガラス壁に一瞬映り込んだあの銀色の仮面が、ただの反射の誤りではないとして。
それらはすべて、繋がっているのだろうか。
透にはわからなかった。
ただ、確認できることが一つあった。
自分の中に、今夜も「問い」がある、ということ。チップはそれを「平静」と記録するかもしれない。けれど透は知っていた。これは平静ではない。名前を持たない何かが、ずっと前から自分の内側を静かに侵食していて、今夜のあの銀色の仮面を見た瞬間に、その根が、わずかに深く張ったのだと。
透は欠片をメモの隣に戻し、引き出しを閉めた。
捨てない。
今夜は、捨てない。
明日もたぶん、捨てない。
それだけが、白瀬透に言えることだった。部屋の窓から外を見ると、カガミアの夜景が無数のガラス面に乱反射して、どこまでも光の都市が続いている。その光の海のどこかに、銀色の仮面をつけた人間が——あるいは、都市伝説のように囁かれる誰かが——息を潜めているかもしれない。
透は窓から目を離した。
まだ、何も知らない。
ただ、見てしまった。そしてもう、見なかったことには、できない。