地下への降下は、いつでも息を殺す儀式に似ている。
透は鏡花の工房に続く螺旋階段を踏むたび、足音が反響しないように体重を分散させる癖が身についていた。頭上のドームが弾く光は、この深さには届かない。石と錆と、古い紙の匂いだけが満ちている。
漣がその場所に来たのは、初めてのことだった。
「狭い」と彼は呟いた。五十に近い体を折り曲げるようにして入口をくぐり、工房の薄暗がりを見渡す目に、どこか子供のような困惑が滲んでいた。「こんな場所で、ずっと」
「慣れると広い」鏡花は振り返りもせずに答えた。作業台の上には二組の書類の束が広げられている。漣が感情管理省の深部から持ち出した機密文書と、透が先月、地下廃墟の奥で土にまみれたままの金属製収納箱から引き出した古い冊子群。どちらも、表紙に同じ印が押されていた。
七枚の羽根を持つ鳥の紋章。感情管理省の前身組織、「設計局」の印だ。
「解読は終わった?」透が問う。
「昨夜から今朝にかけて」鏡花はようやく振り返り、二枚の仮面の下から声を出した。今日は白と銀、二層構造の仮面をつけている。透はもうその奥に本当の顔があることを知っているが、それを口にしたことはなかった。「順番に話す。座って」
三人は作業台を囲んだ。鏡花は一枚の紙を中央に置いた。古い印刷インクで打ち出されたリストだ。字体は百年前の標準書体——今は博物館でしか見ない形をしている。
「廃止された感情は、七つ」
鏡花の指が、項目を順に辿っていく。
《一、渇望》《二、哀愁》《三、畏怖》《四、恍惚》《五、嫌悪》《六、憧憬》《七、羞恥》。
「渇望だけじゃなかった」透は自分の声が遠く聞こえた。「全部で、七つ」
「カガミア建設と同時期、正確には西暦二〇八七年から施行された感情廃止令の完全版だ」鏡花は続ける。「現行の市民に与えられているのは、この七つを除いた十三の感情——そしてそれらもすべて、強度の上限値が設定されている」
漣が静かに眉を寄せた。「廃止の理由は何と書かれている」
「表向きは三つ」鏡花は別の紙を重ねた。「一、社会効率の阻害。二、集団秩序の不安定化。三、個人の精神負荷による労働損失」
「表向きは、ということは」
「裏がある」鏡花の指が、別の頁を開く。設計局の内部文書、「感情廃止令——本来目的に関する覚書」と題された一枚。「これが、本物だ」
透は声に出して読んだ。
「『七感情は、個人が自己を個別の存在として認識する際の根幹機能を担う。これらを体系的に除去することにより、市民の自我核心部を解体し、代替的集合同一性への統合を促進する——』」
部屋の空気が、固まった気がした。
「自我の解体」漣がゆっくりと言葉を噛み砕くように繰り返した。「効率化ではなく。最初から目的は、それだったのか」
「渇望がなければ、人は自分が何を求めているか分からない」鏡花は静かに語る。声に熱はないが、その静けさがかえって凄みを持つ。「哀愁がなければ、失ったものを悼めない。畏怖がなければ、自分より大きな存在の前で立ちすくむことができない。恍惚がなければ、何かに完全に没入する体験ができない。嫌悪がなければ、自分が受け入れられないものを拒絶できない。憧憬がなければ、自分でない誰かになりたいという火が灯らない。羞恥がなければ——」
そこで鏡花は一度止まった。
「羞恥がなければ、自分が他者の目にどう映るかを気にできない。つまり、自分が他者と異なる存在であることを、認識できなくなる」
七つの廃止。それはすなわち、「私」という感覚を支える七本の柱を、根元から折ることだった。
透は拳を作った。爪が掌に食い込む感触が、今の自分が確かに存在していることを証明する唯一の方法に思えた。
「百年間」彼は言った。「カガミアの市民は、それで生きてきた」
「生きていたのかどうか」鏡花が言う。「それが、問いだ」
沈黙が落ちた。漣はずっと文書に視線を落としたままだった。彼は何かを探すように、ゆっくりとページを繰り始めていた。透は最初、漣が確認作業をしているのだと思った。しかし次第に、その動作が違う意味合いを帯びていると気づく。手が、微かに震えていた。
「漣さん」
返答はなかった。漣は文書の特定の箇所で、ぴたりと動きを止めていた。
「漣さん」透が繰り返す。
「……名前がある」漣は掠れた声で言った。
作業台の上の紙を、鏡花と透も覗き込んだ。「感情廃止計画——立案委員会」という頁だ。委員名が七名、縦書きに並んでいる。
三番目に、その名前があった。
《漣 孝道》
「父の、名前だ」
漣の声には感情がなかった。それがかえって、透には痛かった。感情管理省の仮面がそこにあるのではなく、仮面より深い場所で何かが動けなくなっているような——そういう静止だった。
「孝道さんは」透は慎重に言葉を選びながら、「感情管理省に、いたんですか」
「設計局時代に、顧問格で関わっていたと……聞いたことはある」漣はゆっくりと顔を上げた。「だが詳しくは、話してくれなかった。私が子供の頃に死んだ人間だ。記録もほとんど残っていない」
鏡花が静かに割り込む。「この文書によれば、孝道氏は七感情のうち『羞恥』の廃止論の起草者だ。もっとも精緻な理論を組み上げたと、委員会議事録に記されている」
漣は何も言わなかった。透は彼の横顔を、正面から見ることができなかった。
長い沈黙のあと、漣は文書から視線を外し、天井の古い配管を見上げた。百年前の錆びた鉄管が、剥き出しのまま走っている。
「記録をつけ続けてきた」漣はひとりごとのように言った。「省内の腐敗を。不正を。いつかすべてを、白日のもとに晒せると、思っていた」
透は息をのんだ。
「傍観者のつもりで、いたのかもしれない。内側から見届ける観察者として。自分は手を汚していない——そう思うことで、ずっと、立っていられた」
漣の言葉は、自分に向けられているのか、亡き父に向けられているのか、あるいは百年前のカガミアそのものに向けられているのか、透には判断できなかった。
「見ていただけでは、足りなかったのかもしれない」
鏡花は何も言わなかった。それが彼女なりの配慮だと透は思った。
透は机の上の文書を、もう一度眺めた。七つの名前。七つの廃止感情。設計局の鳥の紋章。そしてアルマの名前は——まだ、どこにも出てきていない。だが透は確信していた。この計画の上に、現政権がある。アルマが君臨している。慈愛の仮面をかぶった、この都市の設計者が。
「次は」透は口を開いた。「七つの感情が、今も市民のチップのどこかに眠っているのかどうか、調べたい」
鏡花が、仮面の奥から彼を見た。
「調べ方は、ある」
「危険か」
「いつでも」
透は頷いた。恐れる気持ちは、もちろんある。だがその恐れは、今の自分の内側にある何かが、まだ生きている証拠だ。廃止されなかった感情が、燃えている証拠だ。
「始めよう」
三人は、壊れかけた地下の光の中で、次の一手を話し始めた。百年前の文書が作業台に広がり、錆びた空気の中で、失われた七つの感情の名前が、初めて声に出されて呼ばれ続けた。
その夜、漣は工房を最後に出た。階段を登りながら、一度だけ立ち止まり、暗がりに向かって何かを呟いた。透にはその言葉は聞き取れなかった。
ただ、漣の背中が、来た時より少し小さく見えた。