朝の点呼に、ハルがいなかった。
整列した工員たちの顔は、いつもと同じだった。目元に微かな光沢を帯びた官製の仮面、そのどれもが同じ温度で、同じ角度で前を向いている。管理された穏やかさ。感情省が設計した最適解の表情。その中に、ハル・ソラミの小柄な輪郭だけが、ぽっかりと欠けていた。
監督員が欠席票を読み上げるとき、その声にはなんの起伏もなかった。「体調管理コードの提出を確認。本日の欠勤を記録します」。それだけだった。誰も振り向かなかった。仮面の奥で誰かが心配したとしても、その感情は0.3秒以内にチップが処理して、穏やかさという名の平坦さへと均されていく。
透だけが、少しだけ長く、ハルの席を見た。
工場の作業音が満ちてくる。プレス機の律動、研磨剤の匂い、硝子板が搬送ベルトの上を滑る透明な音。透は自分の持ち場に戻りながら、昨夜の地下廃墟を思い出していた。零の言葉。「透が消した者の残滓」。頭の裏側に棲みついた頭痛は今朝も消えておらず、こめかみの奥でじくじくと疼いていた。
鏡花のところへは、まだ行けていない。
昼休憩の鐘が鳴ると、透は工場を抜け出した。
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ハルの居住区は第七ブロックの端、ドームの曲面が最も低く垂れ下がった場所にある。空が近いようでいて、実際には半透明の隔壁が二重に重なっているだけだ。光は届く。しかし、外は遠い。
インターホンを押すと、しばらく間があった。
「……透?」
くぐもった声だった。いつものハルの声より、少しだけ低かった。
「ちょっと、顔見に来た」
また間があった。それから、扉が開いた。
部屋の中は薄暗かった。採光パネルが半分落とされていて、ドームの曲面から差し込む午後の光だけが床を這っていた。ハルは薄手の作業着のまま、壁際に小さく座っていた。
透が部屋に入ったとき、最初に気づいたのは仮面だった。
ハルはつけていた。当然だ。屋内でも仮面の着用は義務だ。しかし、その仮面が、おかしかった。
官製の仮面は光を均等に反射するよう設計されている。滑らかで、継ぎ目がなく、人間の感情をちょうど見えなくする厚みで作られている。しかしハルの仮面には、頬骨の下あたりに、ほんの微かな段差があった。それは影とも傷ともつかないほど小さな違和感で、見慣れた目でなければ見落とすはずだった。
仮面を毎日作っている透には、わかった。
「ハル」
低く呼ぶと、ハルの肩が揺れた。
「……ばれた?」
「俺にしかわからない。多分」
ハルはゆっくりと膝を抱えた。仮面の奥で目が動いているのが、かすかな光の揺れで透にはわかった。
「いつから」と透は聞いた。
「三ヶ月くらい。闇の業者から買った改造パーツ。安い奴だったけど、ちゃんと動いてる」
「何を改造した」
ハルはしばらく黙っていた。それから、決めたように言った。
「悲しみ。少しだけ、増幅させてる」
透は何も言えなかった。
「おかしいよね」とハルは続けた。声は穏やかだったが、その穏やかさの奥に何かが詰まっているような、圧縮されたような音がした。「普通は鈍らせるじゃない。みんな。苦しくないように、悲しくないように、チップで落として、仮面で隠して。なのに私、逆のことしてる」
「なんで」
「本当に泣きたいときに、泣けないから」
その言葉が、部屋の中に静かに落ちた。
透はゆっくりと床に腰を下ろした。ハルと同じ高さになると、仮面越しでも、相手の呼吸の震えが見えた気がした。
「お母さんが、死んだの。去年の冬に」
「知らなかった」
「言わなかったから。工場で言う話でもないし、チップが自動でネガティブ感情を処理するから、翌日にはもう普通になってて。自分でも怖かった。悲しいのに、悲しくない。泣きたいのに、泣けない。喪失コードが発動して、感情省のデータに記録されて、そこで終わり」
ハルの声は最後の方で少し乱れた。しかし泣かなかった。仮面がそれを許したとしても、体がもう泣き方を忘れているように見えた。
「改造してから、少しだけ泣けるようになった。一人のときに。夜中に、布団の中で。誰にも見せないし、データにも残らない。でもちゃんと悲しめる。ちゃんと、お母さんのことを思える」
透はハルの仮面の段差を見つめた。頬骨の下の、親指の爪ほどの微細な改造。そこに、ハルの三ヶ月分の夜が詰まっていた。
「怖くないの」と透は聞いた。「発覚したら、感情再調整プログラムに送られる」
「怖い。でも、それより怖いことがあった」
「何が」
「泣けないまま、忘れること」
その一言が、透のどこかを刺した。頭の奥の頭痛が、一瞬鋭くなった。消した記憶。零の言葉。透が消した者の残滓。透も、何かを忘れている。何かを、消されている。
透は深く息を吸った。
「誰かに言うつもりはない」
「え」
「そのまま、つけてていい。俺は見なかった」
仮面の奥でハルが瞬いた。信じていいのか測るような間があって、それから小さく「ありがとう」と言った。声が、少しだけ濡れていた。
透には感情制御チップがある。悲しみは今も均されているはずだった。しかしそれでも、胸の奥に何か重いものが積もった。チップが処理しきれないほどではない。しかし確かにそこにある、言葉にならない圧力。
鏡花が作った仮面なら、これをなんと名付けるだろう、と透は思った。
「私みたいなの、他にもいると思う」とハルは言った。「工場の子たちの中にも。みんな普通に見えるけど、どこかに一個だけ、本物の感情を隠してる。小さな抵抗みたいに」
「それがばれたら」
「ばれたら終わり。わかってる。でも、やめられない。やめたら、自分が完全になくなる気がして」
透は立ち上がった。帰り際、扉の前で振り返った。
「明日、来れそう?」
ハルは少し考えてから頷いた。「来る。来ないと、チップのデータが警告値に達するから」
「そっちの理由かよ」
「そっちの理由。でも、透に会いたいのもある」
透はなんとも言えなくて、短く「じゃあ」と言って部屋を出た。
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廊下に出ると、ドームの半透明な壁越しに、外が見えた。見えた、というより感じた。光の屈折が違う場所があって、そこに何かが揺れていた。風かもしれない。ドームの外に、まだ風があるとしたら。
透は歩きながら考えた。
ハルの仮面の段差。三ヶ月分の夜。泣けないまま忘れることへの恐怖。あれは抵抗ではなかった、と透は思う。あれは、存在を証明しようとする行為だった。私はここにいた、と。私は悲しんだ、と。チップが処理して、データが消えても、この体が、この夜が、確かに悲しんだのだと、証明しようとする。
鏡花に会わなければならない、と透は思った。
零の言葉を持って。ハルの話を持って。自分の頭の奥で疼き続ける、消えない頭痛を持って。
仮面工場で量産される顔たちの向こうに、本当の顔がある。泣いた顔、怒った顔、泣き方を忘れた顔。ハルがたった一つの小さな改造で守ろうとしたもの。それを、透はまだ言葉にできない。
しかし確かに、名前のない何かが、胸の底で燃えていた。