地下へ続く梯子を降りるとき、いつも透は奇妙な感覚に囚われる。
カガミアの地上は光の氾濫だ。ガラス張りの壁面が互いの像を映し合い、どこを向いても自分の仮面が乱反射して返ってくる。太陽光を模した人工照明が白く天井を焼き、市民たちは影すら持てない。けれど梯子を一段降りるごとに、その光は薄れ、代わりに黴と錆と、名前のつけられない時間の匂いが濃くなっていく。
直轄精密検査。漣がそう記した言葉は、今も透の胸の奥に棘のように刺さっていた。
アルマが、自分に目を向けた。
それが何を意味するか、透にはまだ輪郭しかわからない。だが輪郭だけで十分だった。形のない恐怖というものは、形を持った恐怖よりも遥かに深く、人の足を竦ませる。
今日の仮面工場での作業は終わっていた。所定の七時間、透は黙々と型を合わせ、樹脂を流し込み、仕上げの研磨をした。感情チップは穏やかな数値を出力し続けたはずだ。何も知らない機械のような顔で。鏡花に教わった、感情の「鎮圧」ではなく「偽装」の技術を、透はこの数週間で少しずつ体に染み込ませていた。
それでも、地下へ来ずにはいられなかった。
鏡花に会うためではない。ただ、ここでしか呼吸できないような気がして。
旧時代の廃墟が広がる地下街は、今夜も静かだった。かつて建物だったものの残骸が、不規則な柱廊のように続いている。崩れかけた看板に滲んだ文字は判読できないが、透はそれを好んだ。読めない言葉は、管理されない言葉だ。意味を持てない言葉は、チップに数値化されない。
足音を立てないよう、瓦礫の上を選んで歩いた。
どこからか水が滴る音がした。地上の浄水管が老朽化して、地下に漏れ出しているのだろう。一定の間隔で落ちる水音が、妙に心拍に似ていて、透は立ち止まった。
そのとき。
「また来た」
振り向く前に、声の方向がわかった。前だ。透が向いていた方向、廃墟の通路が折れ曲がる角の、わずかに明るい場所。
零が立っていた。
前に見たときと同じように、仮面をつけていない。それだけで、この都市において零は異物だった。仮面のない顔というものを、透は幼少期からほとんど見たことがない。親の素顔すら記憶の霧の中にある。だから零の顔を見るたびに、透は奇妙な既視感と拒絶感が同時に湧くのを感じる。知っているような、知ってはいけないような。
「逃げなかったな」と零は言った。声は低く、感情の起伏が少なかった。だが無機質ではない。何かを長い時間かけて削り落とした末に残った、磨耗した温度のようなものがあった。
「逃げる理由がない」
透が答えると、零はわずかに首を傾けた。
「アルマが目を向けた。それでも?」
透の喉が詰まった。どうして零がそれを知っているのか、という疑問より先に、知っていて当然だという妙な納得が来た。それが怖かった。
「お前は何を知っている」
「お前が知りたいことを、全部」零は言った。「だが今夜教えられるのは、一つだけだ」
足を踏み出した。一歩、二歩。透との距離が縮まる。地上では絶対に許されない距離感だ。他者との物理的な接近は感情の汚染リスクとして管理されており、一定以上の近接はチップに記録される。だがここには管理がない。だから零は近づける。近づいてくる。
透は動かなかった。
「渇望を装着した者は、必ず選択を迫られる」
零の声が、瓦礫の隙間を埋めるように広がった。
「逃げるか。壊すか」
「逃げるって、どこへ」
「ドームの外」零は言った。「カガミアが存在しない場所へ。お前が誰でもなくなれる場所へ」
「壊すというのは」
「このシステムを。仮面を。チップを。アルマが百年かけて積み上げたものを、全部」
沈黙が落ちた。水の滴る音だけが続く。
透は唇を開いた。しかし言葉が出てこなかった。どちらでもないと言いたかった。まだ何も決めていないと。だが零の目を見ていると、その答えがひどく臆病に思えた。零の目には、何の光もなかった。チップの干渉を受けない、管理されない目。それは空虚ではなく、焼け落ちた跡地のような静けさだった。
「お前は誰だ」
透は聞いた。前回も同じことを聞いて、零は消えた。今夜は少し長く留まっている。もしかしたら、今夜なら答えてくれるかもしれない。
零は動かなかった。
「お前が消した者の残滓だ」
声に、なんの装飾もなかった。
「消した?」透は繰り返した。「俺が、消した?」
「お前は覚えていない」零は言った。「消えたものは、消えたことすら残らない。それがこの都市のやり方だ。だがな、白瀬透。消えたものがすべて無になるとは限らない」
透は言葉を探した。俺が消したものとは何だ。俺は何かを消したのか。記憶か。感情か。それとも、人か。
問う前に、零の輪郭が揺れた。
光が変わったわけではない。零自身が薄れていくのだ。煙が散るようではなく、もっと静かに。存在が密度を失っていくように。
「待て」透は言った。思わず手を伸ばしていた。「まだ何も——」
「選択は、お前がするものだ」
零の声だけが残った。姿はもう、どこにもなかった。
透は伸ばした手を、ゆっくりと降ろした。指先が微かに震えていた。チップがそれを読んだかもしれない。感情の分類名は何になるだろう。恐怖か。困惑か。それとも、まだ名前のついていない何かか。
暗い廊下に、水音だけが戻ってきた。
透は長い間、そこに立ち尽くした。
零の言葉が、頭の中で反響し続けた。逃げるか、壊すか。二つしかない道。だがその言葉が引っかかるのは、選択肢の内容ではなかった。零の自己定義だ。お前が消した者の残滓。透は誰かを消したのか。透自身が、誰かを。
思い出そうとすると、頭の奥に鈍い痛みが走った。
それはいつも、ある種の記憶に近づこうとするときに起きる。幼少期の、ある場所の、ある顔の、輪郭だけがある記憶。内容がない。文脈がない。ただ輪郭だけが、透の脳に焼き付いて離れない。
チップが、何かを書き換えたのか。
あるいは、透自身が忘れることを選んだのか。
どちらにしても、零はそれを知っている。そして零は、透の前にだけ現れる。鏡花の前にも、漣の前にも現れないという確証はないが、少なくとも今夜、ここには透しかいなかった。
零は透を選んでいる。それは偶然ではない。
透は仮面の縁に指をあてた。今つけているのは工場で支給される標準型だ。感情の過剰な露出を防ぐための、平均的な顔。平均的な顔をした無数の市民の一人として、透は今日も生きてきた。
逃げるか、壊すか。
透はどちらでもないと思っていた。だが零の問いが頭に焼き付いてから、もう一つの選択肢を探そうとしても、何も見つからない。第三の道など、もとからなかったのかもしれない。ただ透がそれに気づいていなかっただけで。
足が動き始めた。地下を抜けて、鏡花の作業場へ向かうつもりだった。零の言葉を誰かに話さなければ、自分の中で腐っていくような気がした。
梯子を登る前に、透は一度だけ振り返った。
零がいた場所は、もう暗闇に戻っていた。
何も残っていない。ただ、水が滴る。一定の間隔で。まるで誰かの、止まらない心臓のように。