光の触手が、廃ビルの割れた窓枠を這い回っていた。

 探索用の走査光だ。感情管理省が運用する自律型ドローンが放つそれは、乱反射するガラス片の間をぬって、室内の空気をじわりと白く染める。透は息を止めた。隣で鏡花が人差し指を唇に当て、目だけで「動くな」と命じた。

 一分が、砂を噛むように過ぎた。

 光が遠ざかる。ドローンの低い羽音が廃墟の外壁を伝って消えていくのを、透は皮膚で感じた。肺の底に溜めていた息を、細く、静かに吐き出す。

「行ったな」

 鏡花が呟いた。断定の声だった。感情の起伏が、まるでない。

 透は改めて彼女を見た。白い作業灯の光の中に立つ鏡花は、今もあの白磁のような仮面をつけている。目元だけが切り抜かれた、感情の読めない顔。チップの記録では「女性・推定二十代後半・無職」としか登録されていない存在。

「お前は、誰だ」

 言葉が、思考より先に出ていた。

 鏡花は振り返った。一瞬、白い仮面の奥の目が、何かを探るように動いた。それからゆっくりと、口元だけで笑う。笑ったのだと透が気づいたのは、仮面の縁から覗く頬の筋肉が、わずかに持ち上がったからだ。

「おもしろいことを聞く」

 彼女は小さな革の鞄を開いた。工具と一緒に、いくつかの仮面が仕切り板で整然と並んでいる。どれも精巧で、どれも違う。

「見ていて」

 鏡花は白磁の仮面をはずした。

 透は思わず息を飲んだ。仮面の下から現れたのは、予想とはまるで異なる顔だった。整っているとも崩れているとも言えない、ただひどく疲れた顔。目の下に薄い影があり、唇は力なく結ばれている。それが素顔なのだと透が思った刹那、鏡花は別の仮面を手に取った。

 今度は、わずかに表情の刻まれた仮面だった。目尻に笑い皺が彫られ、柔らかな人間味が宿っている。それをつけた瞬間、鏡花は変わった。声のトーンが上がり、肩から力が抜け、親しみやすい誰かになった。

「これが、市場に出回る感情演出用の第三類。社交用と呼ばれる」

 彼女はそれをはずし、次の仮面をつけた。今度は目元が鋭く、権威の空気を纏った顔だ。声が低くなり、立ち姿まで変わった。

「第一類。管理職向け。被ると不思議と背筋が伸びる。チップとの同期で自信の感情値が十五パーセント上昇する設計になっている」

 また換える。今度は悲しみを湛えた仮面。目が伏し目がちに設計され、口元が微かに下がっている。

「第五類。喪失表現用。葬儀や官製の追悼式で着用が推奨される。チップが悲嘆の数値を規定範囲に収めてくれる。はみ出さない悲しみだ」

 透は黙って見ていた。どの仮面も、鏡花の体にぴったりと馴染んだ。まるで彼女がそれぞれの仮面のために作られたかのように、あるいは仮面が彼女の一部であるかのように。どれも本物のように見えた。だからこそ透は、どれが本当の鏡花なのかを見失っていった。

「もういい」

 透は言った。声が掠れていた。

 鏡花は手を止めた。第五類の仮面を膝の上に置き、今度は何もつけない顔でこちらを向いた。さっき見た、疲れた顔。

「なぜ」

「気持ち悪い」

 鏡花の目が細くなった。怒りではない。何か別のものを確認するような目だった。

「正直だな」

「俺には、どれが本物かわからなかった。どれも本物みたいに見えた。そのことが」

 透は言葉を探した。胸の内側で渇望が、じりじりと揺れている。増幅されたそれは、問いの形を取って透を焦がし続ける。これは自分の感情か、それとも改造されたチップが作り出した偽物か。その問いすら、渇望の一部なのか。

「そのことが、怖かった」

 鏡花は長い間、黙っていた。

 廃ビルの天井のどこかで、水が滴る音がした。旧時代の配管がまだ生きているのか、雨水が染み込んでいるのか。カガミアのドームの外には雨が降るのだということを、透は整備マニュアルで読んだことがある。実物は見たことがない。

「私の本当の顔は」

 鏡花が言った。静かな、ほとんど独り言のような声だった。

「もうどこかに消えてしまった」

 透は動けなかった。

「十三歳のとき、感情管理省の第七研究棟に連れて行かれた。自分から行ったわけじゃない。両親がいなくなって、孤児として登録されて、適性判定でどこかの数値が引っかかった。それだけのことだ」

 鏡花は仮面を鞄に戻し始めた。一枚ずつ、丁寧に、布で拭いてから。

「四年間、私は被験体だった。感情の増幅と抑制を繰り返す実験。チップの書き換え。仮面の着脱が感情値に与える影響の測定。被験者番号は四十七。名前ではなく、いつも数字で呼ばれた」

「それが、今の技術の……」

「基礎になった部分もある、と思う。確かめる方法はないけれど」

 彼女の声には怒りがなかった。それが却って、透の喉の奥を締め付けた。怒りを持てないほど消耗しているのか、それとも怒りそのものを削ぎ落とされたのか。

「四年後に解放されたとき、私は鏡の前に立った。自分の顔を見たくて。だけど、わからなかった。どれが自分の表情なのか。悲しいのか、怒っているのか、怖いのか。感情を何度も書き換えられて、本来の自分がどこにあるのか、わからなくなっていた」

 透は鏡花の横顔を見た。疲れた顔。今の彼女の顔は素顔なのだろうか。それとも、素顔を喪った後に残った、残骸のような顔なのだろうか。

「それから仮面を作るようになった。最初は自分のために。どんな顔をすればいいかわからないから、顔を作った。そうしたら、顔が増えた。どれが自分かわからないけれど、全部使えるようになった」

「それは」

 透は言葉に詰まった。

「悲しいことじゃないのか」

 鏡花はしばらく黙った。

「悲しい、という感情値が今どのくらいか、チップが教えてくれる。でも、それが自分の悲しみなのかどうか、私にはもうわからない」

 透の胸の中で、何かが揺れた。渇望ではない。もっと形のない、名前のない感覚。それが何なのか、透には言葉がなかった。ただ、目の奥が熱くなった。

「俺は」

 声が震えた。透は自分の声が震えているのに気づいて、少し驚いた。

「俺は今まで、自分の顔のことを考えたことがなかった。仮面をつけていれば、それが俺だった。チップが喜怒哀楽を記録してくれるから、それが俺の感情だった。でも」

 チップが改造されていると知った後、透は自分の感情を信じられなくなった。渇望は本物か、偽物か。問いは本物か、偽物か。だが今この瞬間、胸の中で揺れているこれは——

「これは、俺のものだと思う」

 鏡花が透を見た。

「根拠は」

「ない」

 透は答えた。「だけど、そう感じる。お前の話を聞いて、胸が痛い。それがチップの数値なのか俺の感情なのか証明できない。でも、俺がそう感じている。それ以外の根拠が必要か」

 静寂が落ちた。

 鏡花はゆっくりと目を伏せた。そして、微かに、本当に微かに、口の端が動いた。それは彫られた表情ではなかった。仮面ではなかった。透には、そう見えた。

「白瀬透」

「何だ」

「あなたは危険な人間だ」

「知ってる」

「だから」

 鏡花は鞄を閉じ、立ち上がった。

「もう少し、一緒にいてもいい」

 廃ビルの外では、夜のカガミアが光の迷宮を作り続けていた。ガラスとガラスが互いを映し合い、無数の顔が都市の空に溶けていく。どれが本物の光で、どれが反射なのか、誰にも見分けられない。

 透は自分の右手を見た。仮面工場で毎日型を取り続けた手。他人の顔を何千と作ってきた手。その手で、自分の顔に触れたことが、一度でもあっただろうか。

 廃墟の床に、二つの影が並んでいた。

 遠く、地下のどこかから、かすかな音が聞こえた気がした。足音ではない。もっと規則的な、まるで何かが呼吸しているような音。

 透は顔を上げた。鏡花も気づいていた。その目が、初めて別の色を宿した。

 恐れ、ではなく——認識。

「来た」と鏡花は言った。

硝子の都市と百の仮面

13

仮面の下の顔

御影 澄架

2026-05-25

前の話
第13話 仮面の下の顔 - 硝子の都市と百の仮面 | 福神漬出版