地下街の廃ビルは、ガラスではなく錆びた鉄の匂いがした。

 透はそのことに、奇妙な安堵を覚えた。カガミアの地上はどこへ行っても硝子と反射光に満ちていて、自分の輪郭が幾重にも複製されては薄れていく。だがここでは壁が錆を纏い、天井から剥がれた塗料が床に積もり、光は一筋の隙間からしか差し込まない。すべてが朽ちていた。すべてが、ただ一回だけ存在した。

 鏡花は先を歩いていた。

 彼女の纏う仮面は、隠れ家に入ると同時に変わっていた。廃墟の中で彼女が選んだのは、感情の起伏を微塵も読み取らせない、白磁のような素面に近い造形だった。目の位置に穿たれた二つの孔だけが、暗がりの中でわずかに濡れて見えた。

「足元、気をつけて」

 短い言葉だった。透への配慮というより、確認作業に近い声色だった。

 奥の部屋は思いのほか広かった。かつて事務所か倉庫として使われていたらしく、作業台が二つ、壁際には棚が整然と並んでいる。棚の上には仮面が置かれていた。大小さまざま、素材も形状も異なる仮面たちが、暗がりの中で静かに透を見ていた。笑う口。泣く眉。驚きに開いた目。しかしどれも、装着者がいない。感情は、今ここで眠っていた。

「座って」

 鏡花が指示した椅子は木製で、背もたれの塗装が剥げていた。透は素直に腰を下ろした。彼女は作業台の前に立ち、小さなランタンに火を入れた。オレンジ色の光が部屋の輪郭を拾い、仮面たちの表情が揺れた。

「あなたのチップの読値を、もう一度確認させてほしい」

 断る理由がなかった。透は黙って首の後ろを向けた。鏡花の細い指が、チップの縁を辿る。プローブの先端が皮膚に触れると、わずかな電流の感触があった。

「……やはり、三倍を超えてる」

 彼女の声に、初めて質感が宿った気がした。驚きではない。確信が、更新された音だった。

「これはミスで調整されたものじゃない。意図的なものよ。誰かがあなたのチップに、特定の感情波長だけを増幅させる改造を施した」

「特定の感情、というのは」

「渇望」

 その一語が、部屋の空気を変えた。

 透はその言葉をカガミアで習ったことがあった。市民教育の第七単元、廃止感情の目録。「渇望とは百年前に排除された七つの禁忌感情の一つであり、個人の安定的な社会参加を阻害する過剰な自己衝動である」。定義はそれだけだった。試験に出たことはなかった。誰もその言葉を日常で口にしなかった。

「渇望が、なんなのか、俺は正確には知らない」

「知ってる人間は、今のカガミアにはほとんどいない」

 鏡花は作業台に向かったまま言った。棚から古い紙の束を取り出し、透の前に置いた。印刷ではなく、手書きだった。文字が崩れていて、読めない箇所も多い。

「百年前の研究者が残したノート。感情廃止計画が始まる前の記録」

 透は紙を手に取った。かさついた感触が、指先に残った。

「渇望というのは」と鏡花は続けた。「欲しいものを求める気持ち、じゃない。そう定義されているけど、それは意図的に矮小化された説明」

 彼女は振り返り、透を見た。白磁の仮面の奥から、視線だけが真直ぐに届いた。

「渇望の本質は、問い続ける力よ。自分が何者であるかを、答えが出なくても問い続けること。それが渇望の正体」

 透は黙っていた。言葉が来るのを待った。

「人間が自分を問い始めると、何が起きると思う?」

 わからなかった。透は首を横に振った。

「管理が、できなくなる」

 鏡花の声は静かだった。感情を排したカガミアの話し方ではなく、しかし熱もなかった。ただ、事実として置かれた言葉だった。

「感情をチップで記録して数値化することはできる。でも問いは数値にならない。『自分は何のために生きているのか』という問いに、数値は返せない。答えを出せないなら、管理できない。管理できないなら、秩序が崩れる。だから百年前に、渇望は廃止された」

 透の胸の奥で、何かが動いた。

 動いた、というのは正確ではないかもしれない。ずっとそこにあったものが、その言葉によって輪郭を得たような感覚だった。仮面工場で仮面を作り続けながら、時折感じていた名前のつかない違和感。今日この地下に降りてくる前、鏡に映った自分の顔の前に立ち、「これは俺の顔か」と思ったあの瞬間。

 あれが、渇望だったのか。

「チップの精度が三倍なら」と透は言った。「俺の内側の渇望の波長は、通常より三倍強く記録されているということか」

「そう。だから感情管理省に捕捉される前に、私のところに来る必要があった」

「誰が、俺のチップを改造した」

 鏡花は答えなかった。沈黙が部屋に満ちた。ランタンの炎が揺れた。棚の上の仮面たちが、揺らめく光の中で表情を変えた気がした。

「今はまだ教えられない」

 隠しているのではなく、整理しているのだと、透には何故かわかった。鏡花は嘘をつく人間ではない、という確信が、根拠もなく生まれていた。

「渇望を持ち続けたら、どうなる」

 これは純粋な問いだった。怯えでも抵抗でもなく、ただ知りたかった。

「わからない」と鏡花は言った。「百年間、誰もそれを持ち続けた人間がいなかったから。記録がない」

「でもあなたは」

 透は彼女の仮面を見た。白磁の、表情のない面。

「あなたは、渇望を知っている」

 鏡花の指が止まった。紙束を整える手が、一瞬だけ静止した。

「知っている、という言い方が正しいかどうか」

 彼女は答えを選びながら話した。

「私は渇望を知識として持っている。でもあなたは、渇望を感情として持ち始めている。それは全然、違うことよ」

 透は自分の胸に手を当てた。チップは鎖骨の少し下、皮膚の内側に埋め込まれている。今もそこで、自分の感情を読み取り続けている。数値として記録し、省に送り続けている。

 だが今この瞬間、チップが何と記録しているかを透は考えなかった。

 代わりに考えていたのは、鏡花の言葉だった。

 自分が何者であるかを、答えが出なくても問い続けること。

 透は二十三年間生きてきて、自分が何者であるかを考えたことがあっただろうか。市民番号241-透。仮面工場の工員。喜怒哀楽を適切な範囲内で発露し、逸脱せず、管理省の基準値を維持し続けてきた人間。それが透だった。それ以外の透を、透は知らなかった。

 だがもし、それが全て仮面だったとしたら。

 その下に、顔があるとしたら。

「鏡花」

 名前を呼ぶのは初めてだった。彼女は振り返った。

「俺は、今、渇望を感じている」

 断言できた。不思議なくらい、確かだった。欲しいものがあるわけじゃない。どこかへ行きたいわけでもない。ただ、知りたかった。自分が何者なのかを。この問いを、誰にも止めさせたくなかった。

 鏡花は長い沈黙の後、静かに言った。

「それは、危険な始まりよ」

 彼女の声に、今度こそ何かが混じっていた。透には判別できなかった。警告か、羨望か、あるいは——かつて自分も同じ場所に立っていたことへの、遠い追憶か。

 ランタンの炎が、また揺れた。

 棚の上の百の仮面が、沈黙の中で透を見ていた。答えを持たない問いを抱えた青年を、感情を眠らせた仮面たちが、ただ静かに、見ていた。

 廊下の奥で、何かが動く気配があった。

 鏡花が即座に立ち上がり、ランタンの光を片手で覆った。部屋が暗くなる。透も息を止めた。

 気配は、すぐに消えた。

 しかし鏡花は光を戻さなかった。暗がりの中で囁いた。

「今夜は眠れない。あなたも覚悟しておいて」

 その言葉の意味を問う前に、透は気づいた。

 廃ビルの外壁の、わずかな隙間から差し込む光が、変わっている。街灯ではない。もっと鋭い、探索用の光が、建物の周囲を動き回っていた。

硝子の都市と百の仮面

12

渇望の定義

御影 澄架

2026-05-24

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第12話 渇望の定義 - 硝子の都市と百の仮面 | 福神漬出版