朝の光は、いつも噓をつく。

 カガミア中心区の天蓋から降り注ぐ人工の白光は、市民の睡眠チップを通じて覚醒信号として脳に直接触れる。やわらかで均一で、恐怖の色をしていない。ガラスの壁面が光を受けて乱反射し、街路は幾千の無害な輝きに満たされる。透は制服の襟を正し、仮面工場への通勤路をいつもと同じ歩幅で歩いた。

 昨夜のことは、まだ胸の奥で熱を持っていた。

 廃ビルの暗がり。鏡花の声。「証明できなくても、痛みはあなたのものよ」と彼女に言い返した自分の言葉が、今になって耳の裏に反響する。鏡花が十三歳から四年間、感情実験の被験体だったという告白。その事実の重さは、一晩寝ても軽くならなかった。けれども透は顔に何も出さない。出し方を知らない。仮面の下、表情筋は訓練された沈黙を保っている。感情チップのモニタリング数値は、今朝の検問で「適正」の青い光を点灯した。

 透は、自分が観察されていることを知らなかった。

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 感情管理省第七解析室は地上三十二階にあり、窓のない部屋だった。

 漣庸介は夜明け前から端末の前に座っている。コーヒーはすでに三杯目で、湯気も立てなくなっていた。スクリーンには無数の波形が流れている。カガミア市民三十一万四千名分の感情データ。毎朝、漣の仕事はその海を泳いで、異常の魚を見つけることだ。

 ほとんどの波形はなだらかで、穏やかで、死んでいる。

 それが正常だ、とシステムは言う。感情の起伏が少ないほど社会安定係数が高く、市民の幸福度スコアは維持される。漣はその論理を二十年間、信じるふりをしてきた。厳密に言えば、信じることに疲れながら、信じている自分を演じ続けてきた。

 画面の左端で、一本の波形が微かに揺れた。

 漣は眼を細めた。コーヒーカップを置く。

 市民ID:W-17-透。仮面工場第三製造ライン所属。二十三歳。既往の感情異常記録なし。家族構成、単身。リスク係数、低。

 しかし波形は、確かに揺れていた。

 感情チップが記録する数値は表層と深層の二層構造を持つ。表層は市民が意識的にコントロールできる領域で、検問の青いランプはここを読む。深層は無意識の反応、夢の中の心拍数、瞼の裏の感情残滓を拾う。ほとんどの解析官は表層だけを見る。深層を読むには旧式の解析プロトコルが必要で、そのコードを知っている者は省内でも五人といない。

 漣はそのうちの一人だった。

 深層波形に現れた揺れは、分類コード「R-7」に該当した。R-7。禁忌感情群の第七番。渇望。

 漣は椅子の背もたれに体重をあずけ、天井を見上げた。蛍光灯の白い光がまぶたに沁みる。

 渇望。百年前に廃止された七つの感情のうちのひとつ。現行の感情管理システムでは存在自体が削除されているはずの、あの波形が、なぜ。

 彼は静かに息を吐き、端末の記録を消した。個人の手帳に、鉛筆で書き写す。デジタルデータは省の中央サーバーと同期する。紙と鉛筆だけが、漣の秘密を守れた。

 W-17。白瀬透。

 漣はその名前を三回、声に出さず口の中で動かした。接触を試みるべきか。リスクは高い。しかし放置すれば、もっと精密なスキャナーを持つ部署が先に気づく。感情管理省の上層部にはアルマの直轄監察チームが存在し、漣の部署とは情報を共有しない。彼らが先に動けば、この青年は消える。

 漣は鉛筆を置き、窓のない壁を見た。

 助けると決めたわけではない、と自分に言い聞かせる。ただ、証拠として記録しておく必要がある。それだけだ。

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 同じ朝、別の場所で、別の網が動き出していた。

 カガミア中枢行政区、第一尖塔の最上部。執行官室。

 アルマの側近・第一執行官レナ・ウォーカーは、薄い端末をテーブルに広げ、三人の部下を立たせていた。彼女の仮面は純白で縁に金の蔓草が彫られている。執行官の中で最も格が高いことを示す、装飾的な権力の記号だ。しかし仮面の下の眼が、装飾とはまるで無縁の冷たさで資料を追っていた。

「廃棄仮面の横流しが、第三工場の出荷記録に確認された」

 声は低く、感情を持たない機械のようだった。

「過去六ヶ月で二百四十一個。いずれも欠陥品として廃棄処理されたはずの試作品。うち十七個は、深層感情増幅機能を搭載した試験モデルだ」

 部下のひとりが手を挙げた。「横流しの経路は?」

「追跡中。地下市場を経由しているとみられる。だが問題はそこではない」

 レナは端末を回転させ、部下たちに画面を向けた。廃棄仮面の設計図が映っている。中心に赤い円で囲まれた回路がひとつ。

「この回路を見ろ。深層感情増幅型の試作モデルに共通する改造の痕跡が、回収品の三個に見られた。外部から施された改造だ。これを行える技術者は、現在のカガミアに公式には存在しない」

 部下たちが沈黙した。

「非公式には?」とひとりが問う。

「それを見つけるのがあなたたちの仕事よ」

 レナは端末を閉じた。「第三工場の工員リストを洗いなさい。横流しの出発点は現場にある。感情データの深層スキャンを全工員に対して実施する許可を、今日中に最高執政官から取り付ける」

 会議が散会した後、レナはひとり窓の前に立った。カガミアの街並みが眼下に広がる。ガラスが乱反射する光の海。美しかった。完璧だった。この都市は一点の曇りも許さない。

 許してはならない。

 それがアルマの意志であり、レナ自身の存在理由だった。

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 透は昼休みに工場の裏庭に出て、空を見上げた。

 ドームの天蓋越しに見える空は、いつも同じ青だ。本物の空がどんな色をしているか、透は知らない。教科書には「青」と書いてあった。目の前の青と同じ言葉が使われているのに、なぜかそれが違うものに思えて仕方ない。その「なぜか」を問うことを、かつての透はしなかった。

 今は、する。

 昨夜から何かが変わった気がしていた。感情チップの数値は正常を示しているのに、内側では何かが静かに、しかし確実に動いている。それを何と呼ぶべきか知らない。ただ、空を見るとき、胸に微かな引力のようなものを感じる。

 透は仮面の縁に指を添えた。仮面の内側、頬骨の少し上に、鏡花が施した改造の回路がある。今は眠っている。しかし眠っていても、そこにある。

 工場の監視カメラが、透の横顔を記録した。

 透は知らない。その映像が今夜、第七解析室の端末で漣の眼に触れることを。そしてまた別の経路で、白い仮面の執行官の手元にも届こうとしていることを。

 二つの網が、収縮しながら近づいてくる。

 透の頭上で、カガミアの白い空が、何も語らずに光り続けていた。

硝子の都市と百の仮面

14

監視の網

御影 澄架

2026-05-26

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第14話 監視の網 - 硝子の都市と百の仮面 | 福神漬出版