地下の空気は、地上とは違う重さを持っている。

 透はそれを、今はっきりと感じていた。肺の底に沈殿するような、湿った密度の空気。古いファイルを抱えたまま、彼は来た道を辿るように廃墟の回廊を引き返した。零が消えた方向には何も残っていない。闇だけが、問いかけに答えるように広がっていた。

 *渇望は道を知っている。*

 その言葉だけが、石畳を踏む足音と一緒に透の頭の中で繰り返される。道を知っている、とはどういうことか。渇望とは感情の名前だ。感情管理省が「廃止」と定めた七つのうちのひとつ。だが透の胸の中で、それはいまも確かに脈打っている。チップはその波形を記録しているのだろうか。それとも、すでに閾値を超えて、どこかに通報が走っているのだろうか。

 考えるほどに足が重くなった。

 隠し扉を抜け、廃材の匂いがする薄暗い通路に出た時、透は歩みを止めた。

 入り口の、わずかに外光が差し込む場所に、人影があった。

 女だった。

 壁にもたれるように立ち、両腕を胸の前で組んでいる。その手首には、まるで腕輪のように、三枚か四枚の仮面が重ねてつけられていた。素材も形状もばらばらで、表情も違う。怒りの仮面、穏やかさの仮面、無関心の仮面。それらが手首にぶら下がり、彼女が少し動くたびに、かすかに揺れた。

 顔には、今は何もつけていない。いや、正確には、淡い光沢を持つ薄い半面仮面だけが、目元から鼻先を覆っていた。唇だけが露わで、その唇は今、薄く笑みの形をつくっていた。

「遅かったね」

 と、彼女は言った。

 声は低く、砂を踏むような乾いた質感があった。驚いた、と透は思った。同時に体が一歩分だけ後退した。それを見て、彼女の唇がほんのわずかに上がった。

「逃げても無駄だよ。もう出口はここしかない」

「……あんたは、誰だ」

「そっちが先に名乗るべきじゃないの。入った側が」

 理屈が通っているようで、どこかずれている。透は唇を引き結んで、彼女を観察した。体格は細く、しかし動きに無駄がない。壁にもたれていても、重心が中心にある。いつでも動けるように。

「白瀬、透。仮面工場の工員だ」

「知ってる」

 即答だった。透の眉が動く。

「知っている、というのは」

「仮面工場の第七ラインで、二年と四ヶ月。顔の形状測定が得意で、でも本当は形じゃなくて感触を頼りに仕事してる。違う?」

 違わなかった。正確すぎて、かえって不気味だった。

「……あんたは何者だ」

「鏡花」

 ただ一言、名乗った。姓はなかった。それ以上の説明もなかった。彼女は壁から体を離し、透に近づいた。透は反射的に後退しようとしたが、背後には隠し扉しかない。足が止まった。

 鏡花はためらいなく透の前に立ち、その顔を正面から見た。仮面越しに、何かを確かめるように。透は動けなかった。見られている、という感覚ではなかった。*読まれている*、という感覚だった。文字を拾うように、表情の層を剥がされていくような。

「仮面を」と、彼女は言った。「少し外してもいい?」

「……感情省に」

「記録なんてしない。私の手元には管理システムとは別の読み取り器がある」

 信じる理由がなかった。しかし信じない理由も、今この瞬間には揃っていなかった。透はゆっくり、自分の仮面の縁に指をかけた。標準支給の仮面。穏やかな無表情を模した、白磁色の薄い板。それを頬から浮かせると、鏡花がすかさず片手を差し出した。

「貸して」

 仮面を受け取った鏡花は、光に向けてそれを翳した。外光が差し込む角度で、仮面の内側の面を検分するように。手首の仮面たちが揺れる。彼女の目が細くなった。

「本物だ」

 呟きだった。透には聞こえた。

「何が、本物なんだ」

「あんたの仮面に埋め込まれてるチップ。普通の市民のものと少し違う」

「それは工員だから。製造ラインの管理コードが」

「違う」

 鏡花は仮面を透に返しながら言った。言葉に温度がなかった。ただ、事実だけがそこにある声だった。

「製造コードは別の層に記録される。でもこれは、感情読み取りの精度が通常の三倍以上に設定されている。あんたが工員になった時期に、誰かが意図的に調整した仮面だ」

 透の指が、仮面の縁を強く握った。

「誰が、何のために」

「それを私に聞くの? 私じゃなくて、あんた自身が一番近くにいる問いでしょう」

 答えではなく、問いが返ってくる。透は苛立った。しかしその苛立ちの下に、もっと複雑な感情が揺れているのを感じた。恐怖ではない。驚愕でもない。もっと奇妙な何か。この女は自分の仮面を見て、嘘をついていない。そう思えることへの、奇妙な安堵だった。

「行くよ」

 鏡花はすでに歩き出していた。通路の奥、透が来た方向とは反対へ。

「どこへ」

「安全な場所。ここにいると、あんたのチップの異常値を拾われる。もう誤魔化せる時間じゃない」

 透は動かなかった。見知らぬ女についていく理由を、まだ頭の中で探していた。

 鏡花が立ち止まり、振り返った。その唇が、また薄く動いた。

「あんた、運が悪いね」

 一拍の間。

「それとも良いのか」

 その言葉の意味を考える前に、透の足は動いていた。頭ではなく、渇望が動かした、と後から気づく。それが道を知っているのなら、信じるしかなかった。

 二人は廃墟の通路を並んで歩いた。足音が二重になる。鏡花の手首で仮面たちが揺れるたびに、複数の表情が暗闇の中で明滅した。怒り、穏やかさ、無関心。それらはすべて、彼女自身の顔ではない。それでも彼女は迷わず歩く。

「一つ聞いていいか」

 透が言った。

「素顔は、どこにある」

 鏡花の足が、一歩分だけ遅れた。透にはそれが見えた。すぐに元の速度に戻り、彼女は前を向いたまま答えた。

「私にも、それがわかったらね」

 答えではなかった。でも透には、その言葉の重さが伝わった。失くしたのではない。最初から与えられなかった、という重さ。彼女が過去に何をされたのか、透にはまだわからない。だが今この瞬間、自分たちは同じ問いの上に立っていると、透は思った。

 地下から地上へ続く隠し階段を上りながら、鏡花は一度も振り返らなかった。透はその背中を見ながら、手の中の仮面を握りしめていた。

 三倍の精度で感情を読み取るために調整された仮面。誰が、何のために自分に持たせたのか。そしてそれは、渇望に触れたことと、どう繋がっているのか。

 問いは増えるばかりで、答えは一つも追いつかない。

 だが透の胸の中で、ひとつだけ確かなものがあった。

 この女は、自分の仮面を見て「本物だ」と言った。本物、という言葉の意味を、彼はまだ正確には知らない。けれどその言葉は、工場の検品ラインで何千枚もの仮面を触れてきた自分に向けられた、初めての種類の言葉だった。

 地上の光が、階段の上から差し始めた。

 鏡花の手首の仮面たちが、光の中で一瞬だけ、それぞれの表情を鮮明にした。

硝子の都市と百の仮面

11

鏡花との邂逅

御影 澄架

2026-05-23

前の話
第11話 鏡花との邂逅 - 硝子の都市と百の仮面 | 福神漬出版