地下倉庫の空気は、いつも少し違う。

 地上の工場区には通気管が張り巡らされ、ドーム内の人工気候が隅々まで行き渡っている。温度も湿度も、感情チップが最適と判定した数値に保たれている。だが地下十二メートルの倉庫には、どこかから忍び込んでくる冷たさがある。管理されていない、生きた冷気とでも言うべきものが。

 透はそれを、子供の頃から知っていた。

 工場に配属されて三年。毎週水曜の午後、廃棄仮面の整理と棚卸し作業で地下倉庫に降りるたびに、その冷気に出迎えられる。仮面の数を確認し、破損品にタグを打ち、記録端末に数値を入力する。単純な反復作業だ。感情チップはそういう作業中、α波の安定域に意識を保つよう働きかける。穏やかな無感動。透は長い間、それを「普通」と呼んでいた。

 だが今日は違った。

 棚の最奥、D列の七段目。廃棄仮面が積み上げられた最後の区画で、透は手を止めた。

 壁だ。

 目の前の壁が、おかしい。

 倉庫の他の壁面は、カガミア全土で使用されている標準建材だ。圧縮ガラス繊維と強化樹脂の複合素材で、光を受けるとわずかに虹色の光沢を帯びる。触れると滑らかで、爪先で叩けば澄んだ高音が返ってくる。百年の設計で磨き上げられた、都市の皮膚。

 しかし今透が触れている壁は、違う。

 色が、少し黄みがかっている。表面がわずかに粗い。指先で叩くと、音が低く、くぐもっている。密度が違う。素材が、違う。

 透は仮面工場の工員だ。素材の差異を見抜くことは職業的な訓練の一部だった。仮面に使われる素材は微妙な配合の違いで感情伝導率が変わる。一グラムの誤差が着用者の感情数値を0.3ポイント狂わせることもある。だから透の指は、常に素材の声を聞くように動く。

 そしてこの壁は、確かに何かを語っていた。

 「ここは、本来の壁じゃない」

 声に出してしまってから、透は慌てて口を閉じた。倉庫内に監視カメラはある。音声記録もある。しかし次の瞬間、自分の中に生まれた衝動に気づいて、透は静止した。

 押したい、という衝動。

 壁を押したい。

 それは理屈ではなかった。感情チップの制御外から湧き上がってくる、じわりとした熱。先週、工場区の廊下で感じたあの「渇望」に似た、けれども違う何か。あの時は激しい波のようだった。今感じているのは、もっと静かで、もっと深い場所から来ている。水脈のようなもの。地の底から滲み出てくる、細い細い意思。

 透の手が動いていた。

 壁に両手のひらをあてた。押した。

 沈んだ。

 壁が、内側に沈んだ。

 ガチャリ、という金属的な音が倉庫全体に響いた。冷たい空気が壁の向こうから吹き出してきた。先ほどまでの地下の冷気とも違う、もっと古く、もっと深いところから来る息。黴の匂い。埃の匂い。そして、かすかに、金属の錆の匂い。

 壁の一区画が、扉として内側に開いた。

 透は動けなかった。

 三秒間、ただ立ち尽くして、闇の向こうを見た。感情チップが体温の上昇を感知したのか、胸元の皮膚の下でわずかな振動が走る。鎮静信号だ。落ち着け、と命じている。だが透の心臓は命令を聞かなかった。いや、正確には聞こえていなかった。

 渇望が、静かに笑っているようだった。

 扉の向こうに足を踏み入れた。

 通路は狭かった。肩幅ほどの幅しかなく、天井も低い。壁に触れると、ざらざらとした素材の感触が返ってきた。現行の建材ではない、もっと原始的な、コンクリートに近い何か。透は記録端末のライトを最大にして、前へ進んだ。

 十メートルほど歩いたところで、通路が開けた。

 透は息を飲んだ。

 部屋だ。広い部屋だ。倉庫の二倍はある。天井には蛍光管の残骸が等間隔にぶら下がっており、そのうちいくつかはまだわずかに光を持っていた。青白く、弱い光。まるで魚の目のようだと透は思った。

 床には、棚が並んでいた。

 木製の棚だった。透は写真でしか見たことがない、本物の木材でできた棚だった。カガミアに樹木はない。ドーム外の世界がどうなっているかは公式には不明とされている。木材はすべて百年以上前の遺物か、精巧な模倣品だ。だがこの棚の表面に刻まれた木目の細さ、角に宿る年月の重さは、模倣ではなかった。

 棚の上には、仮面が積まれていた。

 しかしそれは、透がこれまで見てきたどの仮面とも異なっていた。現在生産されている仮面は、均一な白い楕円形だ。感情伝導用の微細回路が内側に施されており、外側の表面は数値に応じて柔らかく発光する。シンプルで、美しく、無個性だ。

 ここにある仮面は、違った。

 形が違う。大きさが違う。いくつかは目の部分が誇張されるように大きく開いており、いくつかは逆に細い切れ目しかない。顎のラインが長く伸びたものがある。頬骨の部分に複雑な彫刻が施されたものがある。色も違う。白だけではなく、色褪せた赤や、くすんだ金や、深い青が混在している。それぞれの仮面が、それぞれの顔を主張するように、棚の上に居並んでいた。

 試作品だ、と透は直感した。

 今の仮面が完成する前の、試作品。

 感情を制御するシステムが確立される前に、誰かが作っていた仮面の原型。透はゆっくりと棚の間を歩いた。手を伸ばしかけて、しかし触れることをためらった。これは過去のものだ。現行の技術とは異なる設計思想で作られたものだ。もしかしたら、触れることで何かが変わってしまうかもしれないという、根拠のない畏れがあった。

 部屋の奥に、一段だけ高い棚があった。

 その棚の最上段。

 分厚いファイルが一冊、埃をかぶって置かれていた。

 ファイルの表紙には、手書きと思われる文字が記されていた。インクが酸化して褐色に変わり、紙は黄ばんでいたが、文字は読めた。

「感情廃止計画 第一次草案」

 透は、長い間その文字を見つめた。

 感情廃止。

 感情を、廃止する。

 カガミアの公式な歴史によれば、感情制御システムは「感情による混乱と暴力から人類を守るために設計された恩恵」だという。感情を廃止したわけではなく、管理したのだ、と教科書には書いてある。感情は今もある。ただ適切に、安全に、数値として扱われているだけだ、と。

 しかしこのファイルの表題は言っていた。廃止、と。

 透の指がファイルに伸びた。

 触れた瞬間、胸の中で何かが鳴った。感情チップではない。もっと深い場所にある、チップなど届かないところにある、自分自身の何かが、確かに音を立てた。

 手が震えていた。恐怖ではない。この震えに名前をつけるなら、それは渇望だ。あの日廊下で感じた激しい波ではなく、百年分の埃と沈黙を越えて今の自分に届いてきた、静かで強い渇望だ。

 知りたい。

 これが、何なのかを知りたい。

 透は、その衝動がチップの制御の外から来ていることを、今は明確に自覚していた。そしてそれが、自分の中で最も正直な声であることも。

 ファイルを開こうとした手が、止まった。

 後ろで音がした。

 振り返ると、通路の入り口に人影があった。

 暗くてよく見えない。しかし透は、すぐにわかった。その人影が仮面をつけていないことを。顔の輪郭が、あるべき均一な楕円形を描いていなかった。凸凹がある。眉がある。目が、唇が、鼻が、ある。

 人間の、本来の顔が、そこにあった。

 「来ると思っていた」

 声は、低く、柔らかかった。

 「渇望は、道を知っている」

 透は息ができなかった。ファイルを胸に抱えたまま、ただその声の主を見た。

 零、という名前が、脳裏に浮かんだ。

硝子の都市と百の仮面

10

地下への扉

御影 澄架

2026-05-22

前の話
第10話 地下への扉 - 硝子の都市と百の仮面 | 福神漬出版