壁が、喋る。
漣はそう思うことがある。自室の書架を押しのけ、石膏と断熱材の隙間に手を差し込むたびに、そこから滲み出てくるものがある。二十年分の声、とでも呼ぶべき何か。文字になった息、数字になった怒り。紙媒体は違法ではない。しかし、こうして壁の中に積み重ねられた「記録」の量と質が露見すれば、漣の首は夜明け前に消えるだろう。
感情管理省の監察官・漣 庸介、四十七歳。省内での評判は「確実で退屈な男」。それで充分だと、ずっとそう思ってきた。
午前二時を過ぎていた。チップの休眠誘導が始まる時刻だが、漣はとうの昔に自分の感情チップの誘導回路を微妙にずらすことを覚えていた。数値は正常値を示したまま、意識だけが冴えている。その感覚に慣れるまで三年かかった。慣れてしまってからは、夜だけが本当の時間になった。
書架の裏から取り出したのは、薄い合成樹脂のファイルだ。表紙もなく、通し番号だけが鉛筆で書かれている。「2167-09」。二十年前、漣がまだ若い補佐官だった頃から始まった記録の一冊だ。
今夜新たに加えようとしているのは、物流データの矛盾についてだ。
発端は三日前、漣の手元に届いた廃棄処理報告書だった。仮面工場区から回収された損傷仮面の月次集計。数字の上では問題ない。しかし漣は二十年の習慣から、当該数値を過去の物流ログと照合する癖がついている。そこに、ほんの小さな齟齬を見つけた。
廃棄仮面の回収総数と、焼却施設への搬入総数が、コンマ以下三桁目だけわずかに噛み合わない。
大抵の人間は気にしない。機械の誤差、入力ミス、そういうことで処理される。実際、漣自身も最初はそう判断しかけた。だが、齟齬のパターンに見覚えがあった。七年前にも、十二年前にも、似た数字の歪みが特定の仮面工場区の報告に現れている。それぞれ異なる担当官の名前で、異なる時期に。しかし齟齬の「形」は同じだ。誰かが、意図的に同じ方法で数字を調整している。
漣は薄い紙に万年筆で書き込みながら、窓の外を一度だけ見た。カガミアの夜は明るい。ドームの天蓋に組み込まれた間接照明が、都市全体を薄青い光に浸している。眠らない都市。透明であることを強制された都市。しかしその輝きの下に、いくつもの暗渠が流れていることを漣は知っている。
問題は、廃棄仮面がどこへ行っているか、だ。
焼却されていないとすれば、再利用か、あるいは流通か。損傷仮面の再加工は原則として禁止されている。しかしチップさえ抜けば、仮面の物理的な外殻は素材として相応の価値を持つ。誰かが、正規ルートを迂回して仮面の外殻を回収している。
その「誰か」の輪郭が、まだ霧の中にある。
漣は新しい頁を開き、日付と案件番号を記した後、ゆっくりとした筆圧で書いた。「廃棄仮面横流し疑惑。搬出経路は非公式。主体不明。関連工場区の絞り込みを要す」。
書きながら、漣の脳裏に一枚の配置図が浮かんでいた。感情管理省が管轄する仮面工場は、カガミア東部に集中している。その中でも今回の齟齬と合致する搬出記録に最も近い施設は、第十七工場区だ。
透の工場だ、と漣は思った。
白瀬 透。二十二歳。第十七工場区の工員。チップの感情記録は終始、正常値の下限付近を推移する、目立たない青年。漣が彼の名前を初めて認識したのは六日前で、理由はその「目立たなさ」にあった。完璧に正常な人間など、存在しない。感情の数値が常に正常値の下限に張り付いている人間は、二通りしかない。極度に無感動な廃人か、数値を意図的に操作している者か。
廃棄仮面の横流しと、白瀬 透の不自然な感情値。
二本の線が、同じ点に向かっているかどうか、まだわからない。しかし漣は長い経験から知っている。都市の中で「偶然」はほぼ起きない。カガミアとは、すべての偶然が排除されるよう設計された場所だ。だとすれば、必然だけが残る。
漣は手元のリストに、第十七工場区の名前を書き加えた。調査対象リストへの追加。これで該当工場は五施設になった。
ファイルを壁裏に戻し、書架を元の位置に押し込んでから、漣は椅子に深く背を預けた。
二十年、続けてきた。誰にも見せず、誰にも語らず、ただ積み重ねた。なぜかと問われれば、答えに詰まるだろう。義憤、という言葉は綺麗すぎる。復讐、というには相手が曖昧だ。強いて言えば、漣は「帳尻を合わせたい」のだと思う。歪んだ数字を、正しい形に戻したい。それは感情の話ではなく、構造の話だ。人を素材として扱うシステムへの、静かな会計上の抗議。
そういう種類の怒りなら、チップには記録されない。
漣は目を閉じた。休眠誘導が来る前に、少しだけ思考を整理しておく必要がある。
廃棄仮面の横流しが事実だとして、外殻だけを抜かれた仮面は何に使われるのか。改造か。素材か。あるいは、もっと別の何かか。
ふと、一年前に耳に挟んだ噂が蘇った。地下廃墟で「仮面の不正改造」を請け負う技師がいるという話だ。そのとき漣は、根拠のない流言として処理した。しかし今夜の文脈で改めて思い返すと、その話の輪郭が少し違って見える。
廃棄仮面の外殻を素材に、何かが作られている。
誰かが作っている。どこかで。
漣は目を開き、暗い天井を見た。カガミアの間接照明が窓から差し込み、室内に細い光の縞を作っている。その縞は揺れない。風も、揺らぎも、ない。完全に制御された光だ。
漣は思う。二十年分の記録は、いつか誰かに渡される日を待っている。自分は運び屋だ。真実の保管者であり、伝達者だ。しかし今まで、「渡す相手」を見つけられなかった。信用できる人間が、この都市にはいなかった。
白瀬 透。
その名前が、また浮かんだ。
根拠はない。ただ、目立たなさの「質」が、漣には少しだけ既視感を与える。若い頃の自分に似た、静かな炎の気配。もちろん、それは錯覚かもしれない。危険な錯覚だ。感情に引きずられて判断を誤れば、二十年分が水泡に帰す。
今は、まだ調べる。
距離を保ちながら、観察する。それが漣のやり方だ。
部屋が、また静かになった。壁の向こうで、紙たちが眠っている。二十年分の証拠が、石膏と断熱材に守られて、息を潜めている。
漣は万年筆を引き出しに戻し、最後に一つだけメモを書いた。明日の朝に焼却する、日常的な業務メモの体裁で。
「第十七工場区・廃棄物処理担当の直近三ヶ月の勤務記録を請求せよ」
それだけだ。それで充分だ。
翌朝、漣が感情管理省の執務室に着いたとき、卓上端末に一件の内部通報が上がっていた。差出人は匿名。内容は「地下廃墟付近での不審者目撃情報」。添付された監視映像の静止画に、漣は思わず息を詰めた。
映像の中に、顔のない人間がいた。
仮面をつけていない、顔のない人間が。
漣は報告書を静かに閉じ、窓の外のガラス張りの都市を見た。乱反射する光が、無数の白瀬 透の輪郭を、無数の漣 庸介の影を、無数の誰かの断片を、壁と天井と床に投げかけている。
この都市は、鏡で出来ている。
だとすれば、映っていないものが、本当のものだ。