佐々木教授との会話から一夜明けた翌日の夜、樹里は再び第三練習室へと足を向けた。廊下の先に漏れる薄明かりを見つめながら、胸の鼓動が早まるのを感じる。教授の言葉が頭の中で反響していた。雅楽院静香という戦前の女流作曲家の存在、そしてエドワード・グレイとの関係。二人とも未完の作品を残してこの世を去った音楽家だった。
練習室の扉を開けると、いつものようにピアノの前にエドワードの姿があった。しかし今夜は何かが違っていた。彼の背筋が微かに緊張しているように見える。
「樹里」エドワードが振り返った。その表情は普段の傲岸不遜な様子とは異なり、どこか複雑な影を宿していた。「今夜は少し事情が変わっている」
「事情?」
樹里が首を傾げた瞬間、練習室の空気がゆらりと揺れた。まるで水面に石を投げ入れたような波紋が空間に広がり、そこに新たな人影が現れた。
和服に身を包んだ女性だった。深い藍色の着物に白い半襟、髪は美しく結い上げられている。その立ち姿は凛として気品に満ち、同時に深い悲しみを湛えていた。女性の霊はエドワードとは対照的に、樹里に向かって優雅に頭を下げた。
「初めまして、桜井樹里さん」
その声は鈴を転がすように美しく、同時に遠い時代から響いてくるような不思議な響きを持っていた。
「あなたが雅楽院静香さんですね」
樹里は直感的に理解し、同じように頭を下げた。昨日の教授との会話で聞いた名前、戦前の女流作曲家の姿が目の前にあった。
「ご存知でしたの」静香は微笑んだ。その笑顔は月光のように儚く美しかった。「佐々木先生からお聞きになったのでしょうか」
「はい。あなたのことも、エドワードさんのことも」
樹里がそう答えると、エドワードが小さく舌打ちをした。
「あの老人め、余計なことを」
「エドワード様」静香が穏やかな口調で諭すように言った。「佐々木先生は私たちのことを心配してくださっているのです。そして樹里さんも」
二人の霊の間に流れる空気から、樹里は彼らが以前から知り合いであることを察した。しかし、その関係性は複雑なもののように思える。
「お二人は、生前からお知り合いだったのですか?」
樹里の質問に、静香とエドワードは視線を交わした。
「いいえ」静香が答えた。「私たちが出会ったのは、この世を去ってからのことです。この練習室で、同じように音楽への想いに縛られて彷徨っている魂として」
「時代は違えど、我々は同じ呪いを背負っている」エドワードが低い声で続けた。「完成させることのできなかった音楽への執着という呪いを」
樹里は椅子に腰を下ろし、二人の霊の話に耳を傾けた。練習室の空気は重く、時の流れが止まったかのような静寂に包まれている。
「私は昭和の初期に作曲家として活動しておりました」静香が語り始めた。「しかし女性が作曲をするということは、当時としては非常に困難なことでした。社会の偏見、家族の反対、そして戦争という時代の波に翻弄されながら」
その声には深い痛みが込められていた。樹里は静香の言葉の裏にある苦悩を感じ取った。
「それでも音楽を愛し続けた」
「ええ」静香は頷いた。「音楽こそが私の魂そのものでした。しかし最期の作品、私が心血を注いで作り上げようとしていた交響詩『夜想曲』は、ついに完成することなく終わってしまいました」
「夜想曲」樹里は呟いた。
「そう、まさにこの夜のような、静寂の中に秘められた情熱を描こうとした作品です」
静香の瞳に、遠い過去への想いが宿った。
「私もまた、『永遠の調べ』という曲を完成させることができなかった」エドワードが苦々しい表情で言った。「19世紀ヨーロッパで最高峰のピアニストと称えられながら、自分自身が最も愛した作品を世に送り出すことなく病に倒れた」
樹里は二人の霊を見つめた。時代も国も異なる二人だが、音楽への純粋な愛と、それを完成させることができなかった無念さという共通点で結ばれている。
「だから、お二人はこの世に留まり続けているのですね」
「そういうことになる」エドワードが頷いた。「だが、樹里よ。我々の想いを理解してくれる者に出会えたのは、長い時を経て初めてのことだ」
「樹里さん」静香が優しい眼差しを向けた。「あなたには特別な力があります。我々の音楽を感じ取り、理解する力が」
樹里は胸の奥で何かが温かくなるのを感じた。同時に、大きな責任の重さも感じていた。
「私にできることがあれば、何でも」
「まずは我々の音楽を聞いていただきたい」静香が立ち上がった。「未完ではありますが、私たちがどのような想いを込めて音楽を創造していたのかを」
静香はピアノの前に座った。その指が鍵盤に触れると、これまで樹里が聞いたことのない美しい旋律が練習室に響き始めた。日本の伝統的な音階を基調としながらも、西洋音楽の技法を見事に融合させた独創的な作品だった。
音楽は物語を語るように流れ、樹里の心に直接訴えかけてきた。そこには女性として、作曲家として生きることの困難さ、それでも音楽への愛を手放すことのできない魂の叫びが込められていた。
曲が途中で途切れると、練習室は再び静寂に包まれた。
「美しい」樹里は心からそう呟いた。「とても美しい音楽です」
「ありがとうございます」静香の目に涙が浮かんでいた。「しかし、これは未完なのです。最も重要な部分、私が表現したかった核心部分が欠けている」
エドワードも立ち上がった。
「我々二人の音楽、それを完成に導くことができるのは、おそらくお前だけだ、樹里」
樹里は二人の霊を見つめた。彼らの瞳には希望と絶望が同時に宿っている。長い年月を経てもなお燃え続ける音楽への情熱と、それを完成させることができない無力感。
「でも、私にそんなことができるのでしょうか」
「できる」静香が確信を込めて答えた。「あなたの中には、時代を超えて音楽の本質を理解する心があります。それは技術や知識では得られない、生まれながらの贈り物です」
その時、練習室の窓の外で風が強く吹いた。古い校舎が軋む音が響き、樹里は身を震わせた。
「しかし、お気をつけください」静香の表情が急に曇った。「この校舎には、我々以外の存在もいるのです」
「他の存在?」
「ええ」エドワードも深刻な顔つきになった。「音楽への愛ではなく、恨みや憎しみに支配された魂たちも」
樹里の背筋に冷たいものが走った。これまで感じていた温かい音楽への愛とは正反対の、暗い感情の存在を示唆する言葉だった。
「我々があなたに音楽の完成を託そうとすることを、良く思わない者たちがいるのです」静香が心配そうに続けた。
練習室の空気が再び変わった。今度は温かい音楽の調べではなく、どこか不吉な予感を孕んだ重苦しさが漂い始めた。樹里は無意識のうちに身を縮こまらせた。
「でも、恐れることはありません」静香が樹里の手を取った。その手は透明で冷たかったが、確かな優しさを感じることができた。「私たちがあなたをお守りします」
樹里は頷いた。不安はあったが、二人の霊への信頼と、彼らの音楽への純粋な愛に心を動かされていた。
「明日の夜も来てくださいますか?」エドワードが尋ねた。
「はい」樹里は迷わず答えた。
その時、廊下の向こうから何かが這うような音が聞こえてきた。三人は同時に扉の方を振り返った。音は次第に近づいてくる。
「今夜はここまでにしましょう」静香が立ち上がった。「樹里さん、お気をつけてお帰りください」
二人の霊の姿が薄れ始めた時、練習室の扉がゆっくりと開いた。