静香の繊細な指先がピアノの鍵盤から離れると、第三練習室に深い静寂が訪れた。月光だけが部屋を照らし、エドワードの金髪と静香の和装姿を幻想的に浮かび上がらせている。樹里は息を詰めて、二人の霊が放つ荘厳な雰囲気に圧倒されていた。
「美しい楽曲でした」
樹里の言葉に、静香の表情が微かに綻んだ。しかしその笑みは深い悲しみを湛えていて、樹里の胸に鋭い痛みを走らせる。
「ありがとう、桜井さん。でも、この曲は完成することができませんでした」静香が振り返る。「私は......私たちは、この世に想いを残したまま逝ってしまったのです」
エドワードが無言で頷く。二人の間に流れる共通の哀しみが、樹里にもひしひしと伝わってきた。
「もしよろしければ、私の話を聞いていただけませんか」静香が樹里に向き直った。「なぜ私がこの場所に縛られているのか、その理由を」
樹里は頷いた。静香の瞳に宿る深い憂いが、彼女の過去に何があったのかを物語っている。
「私の名は雅楽院静香。昭和十年に、この音楽学校の前身である帝都音楽院を卒業いたしました」
静香の声は、夜の静寂に溶けるように響いた。
「当時の私は、作曲家になることを夢見ておりました。音楽に魅了され、美しい旋律を紡ぎ出すことに人生を捧げたいと......そう願っていたのです」
彼女の表情が曇る。
「しかし、それは叶わぬ夢でした。女性が作曲家として認められることなど、当時はあり得ないことだったのです」
樹里の胸が痛んだ。現代に生きる自分には想像しがたいほどの、厳しい時代の壁が静香の前に立ちはだかっていたのだ。
「卒業後、私は必死に作品を発表しようと試みました。出版社を回り、演奏会の機会を求め、男性の作曲家たちに楽譜を見せて回りました」静香の声が震える。「けれど、返ってくるのは決まって同じ言葉でした。『女性の書く音楽など、誰が聴くというのか』『所詮は女の戯れ事』『家庭に入って良い妻になることを考えなさい』」
エドワードが苦々しい表情を浮かべた。
「愚かな時代だった。音楽に性別など関係ないというのに」
静香が微笑む。しかしその笑顔は、諦めと悲しみに満ちていた。
「感謝しています、エドワードさん。あなたは私の音楽を理解してくださった数少ない方ですから」
樹里は二人の会話を聞きながら、静香の苦悩の深さを思った。音楽への情熱を持ちながら、性別という理由だけで門前払いされ続けた絶望感は、いかばかりだっただろう。
「それでも私は諦めませんでした」静香が続ける。「家族からの反対、世間からの冷たい視線、そして経済的な困窮......全てに耐えながら、密かに作曲を続けました。いつか、きっと私の音楽を理解してくれる人が現れると信じて」
月光が静香の顔を照らし、その美しい横顔に深い陰影を落とす。
「ある日、私は一つの楽曲に出会いました。それは......」
静香の言葉が途切れ、彼女の瞳に涙が浮かんだ。樹里は息を呑んだ。霊である静香が涙を流すその光景は、あまりにも切なくて美しかった。
「それは、私が人生をかけて完成させたいと願った、運命の楽曲でした。『月夜の鎮魂歌』──死者への祈りと、生きる者への希望を込めた、私の魂そのものです」
樹里の心臓が高鳴った。さっき静香が演奏していた、あの美しく哀しい旋律のことだ。
「しかし、私はその楽曲を完成させることができませんでした。昭和二十年の春、空襲でこの建物が焼けた夜に......私は命を落としたのです」
樹里の顔が青ざめた。静香は戦争で亡くなったのだ。
「最期の瞬間まで、私は楽譜を抱いていました。燃え盛る炎の中で、完成させたい一心で......でも、叶いませんでした」
静香の声が涙に濡れる。
「私の音楽は、誰にも知られることなく灰となりました。私の想いも、私の情熱も、全て無に帰したのです」
樹里は立ち上がり、静香の傍らに歩み寄った。霊である静香に触れることはできないが、その哀しみを少しでも分かち合いたかった。
「そんなことはありません」樹里が震え声で言った。「静香さんの音楽は、今も美しく響いています。私には聞こえます。あなたの魂の歌声が」
静香が顔を上げ、樹里を見つめた。
「桜井さん......」
「あなたの作品を、私が完成させます」樹里の言葉に、静香の瞳が大きく見開かれた。「『月夜の鎮魂歌』を、必ず完成させてみせます」
エドワードが感慨深げに二人を見守っている。
「しかし、桜井さん」静香が不安げに呟いた。「私たちだけではないのです。この建物には、もっと多くの霊が存在しています。中には......」
静香の言葉が途切れた時、練習室のドアがゆっくりと開いた。樹里が振り返ると、暗い廊下に小さな人影が立っている。
それは少年だった。十歳ほどに見える、痩せ細った少年の霊が、じっと樹里たちを見つめていた。しかし、その瞳は先ほどまでの静香やエドワードとは明らかに異なっていた。
狂気と憎悪に満ちた、恐ろしい瞳だった。
「静香......久しぶりだね」
少年が口を開くと、その声は子供のものとは思えないほど冷たく、邪悪だった。
静香の顔が恐怖に歪む。
「なぜ......なぜここに」
「僕だって、この場所に縛られているんだ」少年がにやりと笑った。「そして、僕は君たちの希望なんて、全部壊してしまいたいんだ」
樹里の背筋に冷たい戦慄が走った。この少年からは、これまでの霊たちとは全く違う、恐ろしい悪意が放射されている。
「樹里、危険よ」静香が警告の声を上げた。「その子は......」
しかし静香の言葉は、少年の甲高い笑い声にかき消された。