翌朝、樹里は佐々木教授の研究室を訪ねた。重厚な木製のドアをノックすると、中から低い声で「どうぞ」という返事が聞こえてきた。
研究室は古い書物と楽譜で溢れかえっていた。壁一面に並んだ書棚には、音楽史に関する膨大な資料が収められている。窓際の机の上には、黄ばんだ写真や古い新聞の切り抜きが整然と並べられていた。
「樹里くん、どうしたんだい?」
佐々木教授は読みかけの本から顔を上げた。六十代半ばの教授は、いつものように温厚な笑みを浮かべていたが、その瞳の奥には深い知識と経験が宿っているように見えた。
「先生、お忙しいところ申し訳ありません。少し、お聞きしたいことがあって」
樹里は椅子に腰を下ろしながら、どこから話し始めるべきか迷った。昨夜の出来事を正直に話せば、教授は自分を精神的に不安定な学生だと思うかもしれない。しかし、このまま一人で抱え込んでいても解決にはならないだろう。
「この大学の歴史について教えていただけませんか?特に、戦前から戦後にかけて」
教授の表情が微かに変わった。穏やかな笑みが消え、何かを思案するような神色になる。
「随分と具体的な質問だね。何か特別な理由があるのかな?」
樹里は深く息を吸った。
「実は、練習室で不思議な体験をしまして。音楽に関わる人たちの、強い想いのようなものを感じるんです」
教授は長い間、樹里の顔を見つめていた。やがて立ち上がると、書棚の奥から一冊の古いアルバムを取り出した。
「君には話しておいた方がいいかもしれないね」
教授はアルバムを机の上に置き、ページをめくり始めた。セピア色の写真が現れる。大正時代の学生たちが楽器を手にして並んでいる集合写真だった。
「この大学は明治三十年に設立された。当時から多くの才能ある音楽家たちが学び、そして巣立っていった。しかし、戦争という時代の波は、音楽という芸術にも容赦なく襲いかかったのだよ」
教授の声が低くなった。
「戦時中、音楽は『不要不急』とされ、多くの音楽家たちが苦しい立場に置かれた。特にクラシック音楽は『敵性文化』として弾圧された。この大学の学生や卒業生の中にも、志半ばで命を落とした者が少なくない」
次のページに現れたのは、一人の女性の写真だった。凛とした表情で、ピアノの前に座っている。
「この方は雅楽院静香さん。戦前の女流作曲家だった。当時の女性としては珍しく、本格的な西洋音楽を学び、独自の作品を生み出していた。しかし、戦争が激化すると、彼女の音楽も『非国民的』だと批判されるようになった」
樹里は写真の女性の瞳に見入った。そこには強い意志と、同時に深い悲しみが宿っているように見えた。
「静香さんは最後まで自分の音楽を貫こうとした。しかし、周囲の圧力は日増しに強くなり、ついには演奏の機会も奪われてしまった。昭和十九年の冬、彼女はこの大学の練習室で倒れているのが発見された。表向きは過労による心臓発作とされたが」
教授は言葉を切った。
「真相は誰にも分からない。ただ、彼女の最期の作品である交響曲は未完のまま残された。楽譜には『音楽よ永遠に』という言葉が記されていたそうだ」
樹里の胸が締め付けられた。昨夜感じた女性の気配は、もしかすると彼女だったのかもしれない。
「他にも多くの悲劇があった」
教授はさらにページをめくった。今度は若い男性の写真が現れる。
「こちらはエドワード・グレイ。十九世紀後期にヨーロッパで活躍したピアニストで作曲家だった。日本の音楽教育に情熱を注ぎ、この大学の前身となった音楽学校で教鞭を執っていた」
樹里は息を呑んだ。エドワード・グレイ。昨夜出会った高慢な青年の名前と同じだった。
「彼は完璧主義者で、自分にも学生にも厳しかった。しかし、その指導は多くの優秀な音楽家を育てた。彼の代表作である夜想曲は、今でも世界中で愛され続けている」
「その夜想曲は」樹里は震える声で尋ねた。「完成していたのでしょうか?」
教授は首を振った。
「実は、彼の最高傑作とされる夜想曲は未完のまま残されている。明治四十一年、彼は持病の肺病で急逝したのだが、その直前まで新しい夜想曲の作曲に取り組んでいたそうだ。彼は『この曲を完成させることが私の使命だ』と語っていたという記録が残っている」
樹里の心臓が激しく鼓動した。すべてが繋がり始めていた。昨夜出会った霊たちは、確実に実在の人物たちだった。そして彼らは皆、未完の音楽への強い執着を抱いたまま、この世を去ったのだ。
「先生」樹里は意を決して口を開いた。「もし、彼らの魂がまだこの建物に留まっているとしたら」
教授の目が鋭くなった。
「君は彼らに会ったのか?」
樹里は驚いた。教授の反応は、彼女が期待していた懐疑的なものではなかった。まるで、そのような可能性を既に考慮していたかのような口調だった。
「はい。練習室で、エドワード・グレイと名乗る人物に会いました。彼は私に夜想曲を演奏するよう求め、そして厳しく指導すると約束したのです」
教授は深いため息をついた。
「やはりそうだったのか。実は、過去にも何人かの学生から似たような報告を受けたことがある。特に音楽への情熱が強く、霊感の鋭い学生に限って、彼らとの接触があるようだ」
樹里は身を乗り出した。
「他にもそのような学生が?」
「ああ。しかし、全員が最終的には音楽の道から離れることになった。あまりにも過酷な指導に耐えられなかったのだろう。中には、精神的に追い詰められて入院した学生もいた」
教授の言葉に、樹里は背筋が寒くなった。
「君にも忠告しておく。彼らの音楽への執念は、人間の理解を超えている。生者である君が関わるには、あまりにも危険すぎる」
しかし、樹里の心の奥で何かが反発していた。確かに昨夜のエドワードの指導は厳しく、時に残酷ですらあった。しかし、彼の音楽への純粋な愛情を感じ取ることもできた。そして雅楽院静香の悲しみに満ちた存在を思うと、彼らを見捨てることなどできなかった。
「先生、彼らを成仏させる方法はないのでしょうか?」
教授は長い沈黙の後、重い口調で答えた。
「理論上は、彼らの未完の音楽を完成させ、満足のいく形で演奏することができれば可能かもしれない。しかし、それは生半可な技術と精神力では到底不可能だ。君のような若い学生には」
「やらせてください」
樹里の言葉に、教授は驚いた表情を見せた。
「樹里くん、君は自分が何を言っているか分かっているのか?」
「はい。でも、彼らの苦しみを見捨てることはできません。音楽への愛が、彼らをこの世に縛り付けているなら、その愛を完成させてあげたいんです」
教授は樹里の瞳を見つめた。そこには、若さゆえの無謀さだけでなく、真摯な決意が宿っていた。
「分かった。しかし、一つ条件がある」
樹里は身を正した。
「何でも言ってください」
「君が危険な状態になったと判断したら、即座に中止してもらう。私は、これ以上この大学で悲劇を繰り返したくはないのだ」
教授の声には、深い痛みが込められていた。まるで、過去に大切な誰かを失った経験があるかのような響きだった。
樹里は深く頷いた。そして心の中で、昨夜出会った霊たちの顔を思い浮かべた。エドワードの傲慢さの奥に隠された純粋さ、雅楽院静香の気高い悲しみ。彼らの魂を救うことができるなら、どんな困難も乗り越えてみせる。
夕暮れが研究室の窓を染めていた。今夜もまた、練習室で彼らとの過酷な時間が始まるのだろう。樹里は教授に深く頭を下げると、研究室を後にした。
廊下を歩きながら、彼女は教授の最後の言葉を思い返していた。「これ以上この大学で悲劇を繰り返したくない」。その言葉には、まだ語られていない深い物語が隠されているように感じられた。