慎之助の目に映る千鶴の姿に、言い知れぬ不安が這い上がってきた。椅子に縛られた彼女は、時折ぴくりと身体を震わせながら、宙を見つめている。その瞳に宿る光は、いつもの聡明さとは似ても似つかない、どこか虚ろなものだった。
「千鶴!」
慎之助の呼びかけに、千鶴はゆっくりと顔を上げた。しかし、その表情は彼が知る千鶴のものではなかった。
「あら、どちら様でしょうか」
丁寧すぎる口調で千鶴が言った。その声音は確かに千鶴のものだったが、話し方がまるで違っていた。まるで身分の高い武家の令嬢のような、上品で慇懃な喋り方だった。
「千鶴、俺だ。慎之助だよ」
「申し訳ございませんが、そのような方は存じ上げません」
千鶴は首を傾げ、困ったような微笑みを浮かべた。その仕草さえも、いつもの彼女とは異なっていた。
鏡月斎が満足そうに頷いた。
「素晴らしい。心魂草の効果が予想以上に現れている。彼女の中で複数の人格が芽生え始めているのだ」
「何をした!」
慎之助は鏡月斎に詰め寄ろうとしたが、黒装束の男たちに阻まれた。
「心魂草の真の力とは、人の心を分裂させることにある。一つの肉体に複数の魂を宿らせ、それぞれが異なる記憶と人格を持つ。まさに神の領域に踏み込んだ実験と言えよう」
鏡月斎の言葉に、慎之助の血の気が引いた。千鶴に向き直ると、彼女はまた違う表情を見せていた。
「慎之助?慎之助なの?」
今度は幼い少女のような、か細い声だった。千鶴の顔に浮かぶのは、まるで七、八歳の子供のような無垢な表情だった。
「怖いの。暗くて怖いの。お父様はどこにいるの?」
「千鶴、しっかりしろ」
「お父様?」千鶴は首を振った。「お父様は薬草を採りに山へ行ったの。でも帰ってこないの」
慎之助の胸が締め付けられた。千鶴の父親は三年前に亡くなっている。今の千鶴は、まだ父親が生きていた頃の記憶の中にいるのだ。
だが、その表情もまたすぐに変わった。
「あら、この縄は何かしら」
今度は冷静で分析的な声音だった。千鶴は自分を縛る縄を見下ろし、まるで興味深い標本でも観察するような目つきで眺めた。
「麻縄ね。湿度の具合からして、この場所はかなりの地下にあると思われるわ。気温は十五度程度。空気の流れから推測すると──」
その分析的な声が突然途切れ、千鶴は苦しそうに頭を振った。
「やめて、やめてよ!私の頭の中で勝手に喋らないで!」
これは確かに慎之助の知る千鶴の声だった。しかし、その表情には深い混乱と恐怖が宿っていた。
「私は誰?私は一体誰なの?」
千鶴は縄に縛られた身体を激しく動かし、椅子を軋ませた。
「違う、違う人たちが私の中にいる。私じゃない私が私の口で喋ってる」
涙が千鶴の頬を伝った。慎之助は必死に黒装束の男たちを振り払おうとしたが、がっしりと押さえつけられて身動きが取れなかった。
「お静かに」
再び上品な口調になった千鶴が言った。
「騒がしいのは好みませんの。もう少し品良く振る舞っていただけませんこと?」
「あなた誰よ!私の身体から出て行って!」
千鶴が自分自身に向かって叫んだ。その光景は見ているだけで正気を失いそうになるほど異常だった。
「出て行くですって?失礼な。私はあなたですのよ。もっとも上品で美しいあなた」
「違う!私はそんな喋り方しない!」
「でも、心の奥では憧れていたでしょう?身分の高い女性のような優雅さに」
鏡月斎が興味深そうに千鶴を見つめていた。
「興味深い。複数の人格が対話を始めている。これは予想していなかった現象だ」
慎之助は歯噛みした。千鶴が苦しんでいるのに、鏡月斎はそれを興味深い実験の結果としか見ていない。
「千鶴、俺の声が聞こえるか?」
「慎之助...」
千鶴の瞳に一瞬、いつもの彼女の光が戻った。しかし、それもすぐに曇ってしまった。
「でも、あなたも本当にいるの?それとも私の幻覚?もう何が本当で何が嘘なのか分からない」
「俺は本物だ。必ずお前を助ける」
「どうやって?私の中にいる偽物の私たちを追い出してくれるの?」
千鶴の問いかけに、慎之助は答えることができなかった。薬草の知識もない自分に、千鶴を救う手立てが思い浮かばなかった。
「ねぇ、この子も連れてって」
また幼い声になった千鶴が言った。
「この子、ずっと泣いてるの。お父様に会いたがってるの」
「この子って?」
「私よ」冷静な声が答えた。「彼女は私たちの中で一番幼い記憶の断片。父親を失った悲しみを受け入れられずにいる」
「勝手に分析しないで!」
本来の千鶴の声が割り込んだ。
「私たちって何よ!私は私一人なのよ!」
「残念ながら、もうそうではありませんの」
上品な声が諭すように言った。
「私たちは皆、あなたの一部。あなたが押し殺してきた感情や、なりたかった理想像、そして受け入れがたい記憶。それらが心魂草の力によって、独立した意識を持ったのですの」
「嘘よ!私は一人で生きてきた!お父様が亡くなってから、ずっと一人で!」
「だからこそですのよ」
千鶴の表情が優しくなった。
「一人で背負うには重すぎる悲しみと責任。だから心が自分を守るために、それらを私たちに分けたのですの」
慎之助は愕然とした。千鶴の中で起きていることが、ただの薬草の作用だけではないのかもしれない。彼女が父親を失ってから抱え続けてきた心の傷が、心魂草によって表面化しているのではないだろうか。
「千鶴、聞いてくれ」
慎之助は必死に声をかけた。
「お前は一人じゃない。俺がいる。お前の父親は確かに亡くなったけれど、お前が一人で全てを背負う必要はないんだ」
「慎之助...」
千鶴の瞳に再び光が宿った。しかし、その時、彼女の身体が激しく痙攣し始めた。
「あああああ!」
千鶴の絶叫が地下室に響いた。彼女の顔には苦悶の表情が浮かび、まるで内側から何かが破れ出ようとしているかのようだった。
鏡月斎が興奮したように手を叩いた。
「素晴らしい!人格の統合と分裂が同時に起きている!これこそ私が求めていた現象だ!」
慎之助の心に、深い絶望が広がっていった。果たして千鶴を救うことはできるのだろうか。そして、たとえ救えたとしても、元の千鶴に戻ることはできるのだろうか。
地下室に千鶴の呻き声が響く中、慎之助は必死に策を練り続けた。