霧が立ち込める迷宮の中で、慎之助は千鶴の悲痛な叫び声を聞いた。それは彼の胸を鋭く貫き、これまで感じたことのない激しい怒りと決意を呼び覚ました。

 「千鶴……」

 彼は拳を握り締めた。鏡月斎の言葉が頭の中で何度も響いている。監視役、偽りの記憶、実験体……。すべてが真実だとしても、今この瞬間に感じている千鶴への想いまでが偽物だというのか。

 慎之助は立ち上がった。足元はふらついたが、意志の力で体を支えた。迷宮の壁に手をつきながら、彼は歩き始めた。鏡に映る自分の姿が歪んで見えるが、もはやそれに惑わされることはなかった。

 記憶が本物か偽物かなど、もうどうでもいい。千鶴が苦しんでいる今、彼女を救いたいという気持ちこそが真実なのだから。

 迷宮の構造を冷静に観察しながら、慎之助は同心として培った推理力を働かせた。この場所は単なる幻覚ではない。薬草の効果で感覚を惑わされているとはいえ、物理的な構造物として存在している。ならば必ず出口があるはずだ。

 彼は鏡の表面を注意深く調べた。やがて、一枚の鏡の奥に微かな風の流れを感じ取った。その鏡を押すと、秘密の扉のようにゆっくりと開いた。

 「やはりな」

 扉の向こうには薄暗い通路が続いていた。慎之助は迷わずその中に足を踏み入れた。通路は徐々に上り勾配になり、やがて地上へと続く石段に変わった。

 地上に出ると、そこは見慣れた下町の裏通りだった。しかし、普段なら聞こえるはずの人々の声や商いの音がまったく聞こえない。不自然なほどの静寂に包まれている。

 慎之助は周囲を警戒しながら歩いた。やがて、古い屋敷の前で足を止めた。表向きは普通の商家のようだが、窓という窓にはすべて板が打ち付けられ、人の気配を完全に遮断している。だが、屋根の煙突からは薄く煙が立ち上っており、地下からは微かに薬草を煮る匂いが漂ってきた。

 「ここか……」

 これが鏡月斎の組織の本拠地に違いない。慎之助は同心としての経験から、建物の構造と警備の状況を素早く把握しようとした。

 屋敷の周りを一周すると、裏手に小さな勝手口を見つけた。扉には簡単な錠が掛けられているだけで、侵入は容易そうに見えた。しかし、慎之助は眉をひそめた。これほど重要な施設にしては、警備が杜撰すぎる。

 「罠か……」

 それでも他に選択肢はなかった。千鶴を救うためには、危険を承知で突入するしかない。慎之助は懐から小刀を取り出し、錠前を慎重に外した。

 勝手口を開けると、薄暗い台所が広がっていた。火は落とされているが、まだ温かい灰が残っており、つい最近まで人がいたことがわかる。慎之助は足音を殺して屋敷の奥へと進んだ。

 廊下の途中で、彼は奇妙な絵画に気づいた。一見すると普通の風景画だが、よく見ると人物の表情がどれも虚ろで、まるで魂を抜かれたようだった。鏡月斎の実験によって心を壊された人々を描いたものかもしれない。

 慎之助は奥の部屋に向かった。襖を開けると、そこは書斎のようになっており、壁一面に薬草に関する書物が並んでいた。机の上には実験記録らしき書類が散乱している。

 「これは……」

 彼は震える手でその書類を手に取った。そこには千鶴の名前があった。「被検体C-17、白川千鶴」という冷酷な文字が踊っている。記録には彼女の成長過程と、段階的に施された記憶操作の詳細が克明に記されていた。

 さらに恐ろしいことに、慎之助自身の名前も別の書類に記載されていた。「監視員B-09、桐生慎之助」。彼に与えられた偽の記憶の内容まで、事細かに書かれている。

 「くそっ……」

 慎之助は書類を握り潰した。だが次の瞬間、彼ははっとした。これらの書類があまりにも都合良く置かれていることに気づいたのだ。まるで彼に見せるために用意されたかのように。

 その時、背後で襖が閉まる音がした。振り返ると、そこには数人の黒装束の男たちが立っていた。

 「桐生慎之助殿、よくいらっしゃいました」

 男たちの一人が静かに言った。

 「お待ちしておりました。鏡月斎様がお呼びです」

 慎之助は刀に手をかけたが、男たちは武器を抜く素振りも見せない。ただ、その目には異様な光が宿っていた。恐らく彼らも薬草によって心を操られているのだろう。

 「千鶴はどこだ」

 「安心なさい。白川千鶴様は無事です。ただいま、最終的な実験の準備をしているところです」

 慎之助の血が逆流した。

 「最終的な実験だと?」

 「はい。心魂草の完全なる効果を確認するための、最後の段階です。あなた様にも立ち会っていただく予定でした」

 男の言葉に、慎之助は戦慄した。千鶴に何をするつもりなのか。

 「案内しろ」

 彼は観念したように言った。ここで暴れても、千鶴の居場所を突き止めることはできない。むしろ素直について行った方が、彼女に近づけるだろう。

 男たちは満足そうにうなずくと、慎之助を建物の奥へと案内した。やがて、隠し扉から地下へ続く階段が現れた。松明の灯りに照らされた石段を下りて行くと、地下には広大な空間が広がっていた。

 そこは実験室だった。壁際には大小さまざまな瓶が並び、中央には手術台のような台が設置されている。そして、その奥の椅子に縛られているのは……

 「千鶴!」

 慎之助は思わず声を上げた。千鶴は意識を失っているようで、ぐったりと椅子にもたれかかっている。

 「おお、慎之助よ。よく来てくれた」

 実験室の奥から、鏡月斎が姿を現した。その顔には勝利者の笑みが浮かんでいる。

 「いよいよ最終段階だ。君にも見届けてもらおう。完全なる心魂草の力を」

 慎之助は歯噛みした。結局、鏡月斎の掌の上で踊らされていたのか。だが、ここまで来た以上、後には引けない。

 千鶴の傍らに置かれた小瓶の中で、禍々しい紫色の液体が蠢いていた。

薬草師と歪んだ鏡の迷宮

23

慎之助の決意

霧島 彩乃

2026-04-12

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第23話 慎之助の決意 - 薬草師と歪んだ鏡の迷宮 | 福神漬出版