痙攣が収まった後、千鶴は石の床に横たわったまま、荒い息を繰り返していた。体の奥底から湧き上がってきた複数の人格たちは、まるで潮が引くように静寂の中へと消えていく。しかし、彼女たちが残していった感情の残滓は、千鶴の心に重くのしかかっていた。
「千鶴、大丈夫か」
慎之助の心配そうな声が耳に届く。千鶴はゆっくりと上体を起こし、彼の差し出された手を握り返した。温かい手のひらの感触が、現実に戻ってきたことを教えてくれる。
「ええ、何とか……」
声を発してから、千鶴は自分の声が震えていることに気づいた。心魂草の効果はまだ完全には抜けきっていないのだろう。頭の中で、時折別の人格の声がささやくような気配を感じる。
「素晴らしい」
突然響いた拍手の音に、二人は振り返った。鏡月斎が薄笑いを浮かべながら、ゆっくりとこちらに歩いてくる。その後ろには、相変わらず虚ろな表情のお雪が従っていた。
「心魂草に対するこれほど見事な反応を示す者は稀有だ。白川千鶴、君は我々の研究にとって極めて貴重な標本となる」
「標本だと……」
千鶴は立ち上がろうとしたが、足に力が入らず、慎之助の肩に寄りかかる形となった。鏡月斎の冷たい視線が、まるで虫を観察するように彼女を見つめている。
「君の父上は優秀な薬草師だった。しかし、彼は我々の崇高な理想を理解することができなかった」
「父の……理想?」
「そう。白川道順は心魂草の研究を途中で放棄した。人の心を覗き見ることに恐怖を抱いたのだろう。実に愚かなことだ」
鏡月斎は懐から古い巻物を取り出した。千鶴はそれが父の筆跡で書かれた研究ノートであることを一目で理解した。
「これは……」
「君の父が残した心魂草に関する研究記録だ。我々が長年探し求めていたものの一つでもある。この中には、心魂草の精製方法と、人格分裂を意図的に引き起こす調合法が記されている」
千鶴の胸に怒りが込み上げてきた。父の研究が、このような邪悪な目的に利用されようとしていることが許せなかった。
「父は人を救うために薬草を研究していました。あなた方のような……」
「救う?」鏡月斎は嘲笑うように首を振った。「救うという言葉の意味を君は理解しているか?真の救済とは、人々を苦悩から解放することだ。そして、最も確実な方法は、苦悩を感じる心そのものを制御することにある」
地下室の壁に掛けられた松明が、鏡月斎の顔を不気味に照らし出す。その表情は、狂気と確信に満ちていた。
「我々の組織は、この国の民を真の平安に導くために存在している。心魂草の力によって、人々の記憶を整理し、不要な感情を取り除き、完全に秩序だった社会を築き上げるのだ」
「そんなことは……」
「現実を見るのだ」鏡月斎の声が鋭くなった。「この世は争いと憎しみに満ちている。武士は権力を求めて争い、商人は利益のために人を騙し、民は日々の糧に困窮して犯罪に走る。しかし、もし彼らの心から邪念を取り払い、ただ与えられた役割を果たすことにのみ満足を感じるよう調整できたとしたら?」
千鶴は戦慄した。鏡月斎の言葉は、人を人でなくすることを理想として語っていた。
「それは人ではなく、操り人形を作ることです」
「操り人形?いや、それは偏見だ。彼らは苦悩を知らず、嫉妬も憎しみも抱かず、ただ平和に生きることができる。これ以上の幸福があろうか」
慎之助が千鶴の前に立ち塞がるように一歩前に出た。
「そんな歪んだ理想のために、どれだけの人が犠牲になったと思っている」
「犠牲?」鏡月斎は首をかしげた。「お雪を見るがいい。彼女は今、何の苦しみも感じていない。茶屋で客に愛想を振りまく必要もなく、生活の心配をすることもない。完全な安らぎの中にいるのだ」
千鶴はお雪を見つめた。確かに彼女の顔に苦悩の表情はない。しかし、その代わりに人間らしい生き生きとした輝きも失われていた。まるで美しい人形のように、魂の抜けた姿がそこにあった。
「我々は既に実験を重ね、確実な成果を上げている。街の要所要所に配置された我らの仲間たちが、少しずつ民衆に心魂草を混ぜた食物や薬を与えている。まずは従順さを植え付け、段階的に思考を単純化していくのだ」
「何ですって……」
千鶴の顔が青ざめた。つまり、既に多くの人々が知らず知らずのうちに心魂草の影響を受けているということなのだろうか。
「驚くには及ばない。君たちが普段利用している薬屋や茶屋の中にも、我らに協力している者たちがいる。もちろん、彼ら自身も適切に調整済みだがね」
鏡月斎は満足そうに微笑んだ。その笑みは、千鶴に言いようのない恐怖を与えた。
「最終的には、この江戸の町全体を我々の管理下に置く。そして、その成功例をもって全国に展開していく。武士も町人も農民も、すべてが調和の取れた完璧な社会の一部となるのだ」
「そんなこと、幕府が許すはずがない」慎之助が叫んだ。
「幕府?」鏡月斎は愉快そうに笑った。「既に上級役人の何人かは我らの理想に賛同し、協力を約束している。彼らもまた、統治の困難さに疲れ果てていたのだ。従順な民衆ほど統治しやすいものはない」
千鶴は父の遺言を思い出した。『決して組織に関わってはならない』という警告の意味が、今になって痛いほど理解できた。父は、このような恐ろしい計画の存在を知っていたのだ。
「父は……父はこの計画を阻止しようとしていたのですね」
「そうだ。だからこそ、彼は排除されたのだ」
鏡月斎の言葉に、千鶴の体が震えた。父の死が事故ではなく、組織による謀殺だったということを暗に示していた。
「しかし、君は違う。君の中に流れる血は、心魂草に対して特異な反応を示す。君を研究することで、我々はより効率的な調合法を確立できるだろう」
「千鶴を実験台にするつもりか」
「実験台とは人聞きの悪い。彼女は新しい世界の礎となるのだ。これ以上の名誉があろうか」
千鶴の心の中で、再び複数の人格がざわめき始めた。恐怖に震える幼い声、怒りに燃える激情的な声、冷静に状況を分析しようとする理性的な声。しかし、今度は彼女たちを抑え込もうとはしなかった。代わりに、それぞれの声に耳を傾けた。
恐怖は当然の反応だった。怒りもまた正当な感情だった。そして冷静な分析もまた必要だった。これらはすべて、人間として自然な心の動きなのだ。鏡月斎が奪おうとしているのは、まさにこのような豊かな感情の世界だった。
「私は……」千鶴は立ち上がった。足はまだ震えていたが、意志の力で体を支えた。「私は父の娘として、あなた方の計画を阻止します」
「ほう」鏡月斎の目が興味深そうに細められた。「どのように?君は既に我らの手の中にある」
「分からない」千鶴は正直に答えた。「でも、きっと方法はあるはずです。父が途中まで研究していたということは、心魂草の効果を無効化する方法も存在するのではないでしょうか」
鏡月斎の表情が一瞬変わった。それは、千鶴の推測が的を射ていることを示していた。
「興味深い発想だ。だが、残念ながら君にその研究を続ける時間は与えられない」
鏡月斎が手を振ると、暗闇の中から数人の男たちが現れた。彼らの目は皆、お雪と同じように虚ろで、表情に感情の起伏が見られなかった。
「彼らは我らの最初の成功例だ。完全に従順で、命令には絶対に逆らわない。君たちを我らの研究施設まで運んでくれるだろう」
男たちがゆっくりと近づいてくる。慎之助が刀に手をかけたが、相手の数が多すぎた。
「慎之助さん」千鶴が彼の袖を引いた。「まだ諦めてはいけません」
彼女の声には、先ほどまでの震えはなくなっていた。恐怖はあったが、それ以上に強い決意が芽生えていた。父の研究を悪用させるわけにはいかない。この歪んだ理想によって、多くの人々が人形のような存在に変えられることを阻止しなければならない。
男たちが手を伸ばしかけたその時、地下室の天井から土埃が落ちてきた。