みなみが光の粒子となって消えてから三日が過ぎた。朔夜は毎晩、あの研究室の映像を思い返していた。白衣を着た人影、機械の冷たい光、そして何より母の名前が記されていたであろう資料の断片。それらは朔夜の心に深い影を落とし続けていた。
夜が更けるにつれ、霞ヶ丘市の街並みは静寂に包まれていく。古い街灯が淡い光を落とす石畳の道を、朔夜と紬は並んで歩いていた。今夜は忘却獣の活動が活発になると椿野老師から告げられ、二人は街の巡回に出ていたのだった。
「朔夜様」
紬の声が夜の静寂を破った。彼女は白い巫女装束に身を包み、腰には古式ゆかしい鈴を下げている。月光に照らされたその姿は、まさに記憶の守護者という言葉が相応しかった。
「忘却獣の気配を感じます。近づいているようです」
朔夜は立ち止まり、辺りを見回した。普段なら人通りもある商店街も、この時間になると人影は皆無だった。しかし空気に漂う異質な雰囲気は、確かに何かが潜んでいることを示していた。
「どこだ?」
「あちらです」
紬が指差した方向には、古い映画館の建物があった。戦後から続く老舗で、今でも多くの市民に愛されている場所だ。その映画館から、かすかに紫色の靄のようなものが立ち上っているのが見えた。
二人は慎重に映画館に近づいた。正面玄関は施錠されているが、裏口の扉が僅かに開いている。朔夜は紬と視線を交わし、静かに中へと足を踏み入れた。
館内は暗闇に支配されていたが、奥のスクリーンから異様な光が漏れていた。二人がホールに入ると、そこには信じ難い光景が広がっていた。
巨大なスクリーンの前で、影のような生き物が蠢いている。それは人の背丈ほどもある黒い塊で、表面からは絶えず紫の煙が立ち上っていた。忘却獣だった。
そして忘却獣の周りには、数人の人間がぼんやりと立ち尽くしている。映画を観に来た客だろうか。彼らの表情は虚ろで、まるで魂を抜かれたようだった。
「記憶を食われている」
紬が低く呟いた。彼女の手が腰の鈴に伸びる。
「朔夜様、忘却獣は記憶を栄養として生きる魔物です。放置すれば、あの方たちの大切な記憶は全て失われてしまいます」
朔夜は拳を握りしめた。みなみのように、また誰かの大切な記憶が奪われようとしている。それは許せることではなかった。
「どうすればいい?」
「忘却獣の弱点は光です。特に記憶の光には弱い。朔夜様の影絵の力があれば」
その時、忘却獣が二人の存在に気づいた。黒い塊がゆっくりと振り返る。そこには顔らしきものがあったが、目も鼻も口も曖昧で、ただ空虚な闇が渦巻いているだけだった。
忘却獣が低い唸り声を上げる。その瞬間、館内の空気が一層重くなり、朔夜は頭に鈍い痛みを感じた。記憶に干渉してくる力だった。
「来ます!」
紬の叫び声と共に、忘却獣が猛然と向かってきた。その動きは予想以上に素早く、朔夜は反射的に後ずさりした。
しかし紬は違った。彼女は腰の鈴を取ると、それを強く振った。澄んだ音色が館内に響き渡ると、忘却獣の動きが一瞬止まった。
「今です!」
朔夜は咄嗟に手を掲げ、影絵の術を発動させた。しかし動揺のためか、映し出される影は不鮮明で力も弱い。忘却獣は苦しそうに身を捩らせたが、完全に動きを止めるには至らなかった。
忘却獣が再び動き出そうとしたその時、紬が前に出た。彼女は両手で印を結び、何かを詠唱し始めた。古い言葉で紡がれるその祈りは、朔夜には理解できなかったが、確かに力を持っていた。
紬の体が淡い光に包まれる。それは月光よりも温かく、どこか懐かしさを感じさせる光だった。
「記憶よ、その輝きを取り戻せ」
紬の声が響くと、忘却獣の体から紫の煙が激しく立ち上った。獣は苦悶の叫びを上げ、後退していく。
朔夜は紬の力に驚愕していた。彼女もまた、記憶に関わる特別な能力を持っていたのだ。
「朔夜様、今度こそ」
紬に促され、朔夜は心を落ち着けて再び影絵の術を発動させた。今度は清明な意識で、自分の中にある美しい記憶を呼び起こした。
幼い頃に母と見た夕焼け。椿野老師との穏やかな午後。そして紬と出会った日の、あの不思議な感動。
それらの記憶が鮮やかな影絵となってスクリーンに映し出された。忘却獣は光に晒されると、まるで塩をかけられたナメクジのように縮み上がった。
「今だ!」
朔夜と紬が同時に力を放った瞬間、忘却獣の体が崩れ始めた。黒い塊は光の粒子となって消散し、最後に小さな光の玉となって宙に浮いた。
「あれは?」
「忘却獣が奪っていた記憶の一部です」
紬がその光の玉を大切そうに手の平に受け取る。玉はやがて小さな光の粒となって四散し、虚ろだった人々の元に戻っていった。
すると先ほどまで魂を抜かれたようだった人々が、まばたきを始めた。やがて困惑した表情を浮かべ、「あれ、映画は?」「なぜここに?」と呟き始める。
朔夜と紬は人々に気づかれる前に、静かに映画館を後にした。
外の夜風が心地よく頬を撫でた。朔夜は今夜の出来事を反芻していた。初めて忘却獣と対峙し、そして撃退することができた。しかしそれ以上に印象的だったのは、紬の持つ力だった。
「紬、君もまた特別な能力を持っているんだな」
石畳の道を歩きながら、朔夜が口を開いた。
「はい。記憶番人の一族は代々、記憶を守護する術を受け継いでおります。ですが朔夜様のように記憶を視覚化する力は持ちません。だからこそ、朔夜様が必要なのです」
紬の言葉には確固とした使命感があった。しかし同時に、朔夜への信頼も込められていた。
古書店に戻る道すがら、朔夜は夜空を見上げた。星々が瞬く中で、月だけが変わらぬ光を投げかけている。
今夜の戦いは勝利に終わった。しかし朔夜の心には、依然として多くの疑問が渦巻いていた。母の研究、みなみの正体、そして自分の能力の真の意味。
そんな朔夜の思いを察してか、紬が静かに言った。
「朔夜様、記憶の戦いはこれから本格化します。今夜のような忘却獣は、きっと序章に過ぎないのでしょう」
朔夜は頷いた。確かに今夜感じた忘却獣の力は、どこか人為的なものを感じさせた。まるで誰かが意図的に操っているかのような。
二人が古書店の前に着いた時、椿野老師が店の奥から顔を出した。
「お疲れ様じゃ。どうじゃった?」
「忘却獣を一体撃退しました」
朔夜の報告に、老師は満足そうに頷いた。しかし同時に、その表情には一抹の不安も浮かんでいた。
「そうか。じゃが朔夜よ、今夜のは恐らく偵察のようなものじゃろう。本当の戦いは、これからじゃ」
老師の言葉が、朔夜の胸に重くのしかかった。そして同時に、どこか遠くから自分たちを見詰める視線を感じた気がした。
夜の霞ヶ丘市に、新たな影が忍び寄ろうとしていた。