映画館での戦いから一週間が過ぎた。朔夜は古書店「記憶の栞」で、いつものように本の整理をしながら、ふと立ち止まった。手に取った一冊の童話集の表紙に描かれた、母親に抱かれた幼い子供の絵を見つめていた。
「朔夜さん、どうされましたの?」
紬の声に我に返る。彼女は白い装束に身を包み、店の奥で古い巻物を広げていた。記憶守護の術式を研究しているのだろう。
「いや、何でもない」
朔夜は童話集を棚に戻そうとしたが、その瞬間、頭の奥で何かが軋むような感覚に襲われた。思わず額を押さえる。
「朔夜、具合でも悪いのか?」
椿野老師が湯呑みを片手に現れた。いつものように飄々とした表情だが、その目は鋭く朔夜を見つめている。
「老師……僕は、自分の幼い頃のことをどれくらい覚えているのでしょうか」
自分でも驚くほど素直に口から出た言葉だった。老師と紬の表情が微かに曇る。
「記憶というものは、時と共に薄れるものだ。特に幼少期の記憶は曖昧になりがちだからな」
「でも、僕には五歳以前の記憶が全くないんです」
朔夜は童話集を胸に抱いた。「普通なら、断片的にでも何かしら覚えているはずなのに。家族のこと、住んでいた場所のこと、何もかも真っ白で」
紬が立ち上がり、朔夜の傍に近寄ってきた。
「朔夜さん……それは」
「影絵の能力に目覚めたのも五歳の時です。まるで、それ以前の自分が別人だったかのように」
老師は湯呑みを置き、深いため息をついた。
「朔夜よ、記憶というものは時として重荷になる。失われた記憶には、失われるべき理由があることもあるのだ」
「でも、それでは僕は自分が何者なのか分からないままです」
朔夜の声には、これまで押し隠してきた焦燥感が滲んでいた。「他人の記憶は映し出せるのに、自分の記憶の欠片も取り戻せないなんて」
夕暮れの光が店内を橙色に染めている。紬は朔夜の手を静かに取った。
「朔夜さん、お一人で背負わなくとも……」
「紬、ありがとう。でも、これは僕自身の問題なんだ」
朔夜は店の奥へと向かった。そこには彼が影絵の練習に使う小さな部屋がある。老師と紬が心配そうに見守る中、朔夜は部屋の中央に座り込んだ。
「自分の記憶を映し出してみます」
「朔夜、待て。それは危険だ」
老師の制止も聞かず、朔夜は手を壁に向けて構えた。いつものように意識を集中させる。だが、今度は他人ではなく、自分自身の記憶を探ろうとした。
最初に浮かんだのは六歳の記憶。椿野老師に出会った日の光景が、淡い影絵となって壁に映し出される。次に七歳、八歳と、時間を遡っていく。
そして五歳の記憶に差し掛かった時、突然強烈な頭痛が朔夜を襲った。
「うっ……」
影絵が激しく歪み、形を失っていく。朔夜の額から汗が流れ落ちる。
「朔夜さん、お止めください!」
紬の声が聞こえるが、朔夜はさらに意識を深く潜らせようとした。五歳より前、四歳、三歳へと記憶を辿ろうとする。
その瞬間、壁に映った影絵が完全に消失した。朔夜の視界が真っ暗になり、意識が遠のいていく。最後に聞こえたのは、紬の悲鳴のような呼び声だった。
どれくらい気を失っていただろうか。朔夜が目を開けると、膝枕をしてくれている紬の心配そうな顔が見えた。
「朔夜さん、ご無事でしたか」
「僕は……」
朔夜は身を起こそうとしたが、まだ頭がふらついている。老師が心配そうに覗き込んできた。
「無謀だったな、朔夜。自分の記憶を無理に探ろうとするものではない」
「でも、何も見えませんでした。まるで最初からそこには何もなかったかのように」
朔夜の声には深い困惑が宿っていた。「記憶が失われたのではなく、最初から存在しないような感覚でした」
紬は朔夜の手を握りしめた。
「朔夜さん、無理をなさらずとも……わたくしたちがお側におりますゆえ」
「紬の言う通りだ」老師も頷いた。「記憶がすべてではない。今の朔夜は間違いなく朔夜だ。それで十分ではないか」
しかし朔夜の心の奥では、疑問が渦巻いていた。なぜ五歳以前の記憶が完全に失われているのか。なぜ影絵の能力がその時期に突然現れたのか。そして、自分は本当に朔夜という名前で生まれてきたのか。
窓の外では夜が深くなり始めていた。街の向こうで、微かに忘却獣の気配を感じ取る。だが今夜は、朔夜の心を占めているのは外敵への警戒ではなく、自分自身への疑念だった。
「老師、僕を拾ってくださった時のことを詳しく教えてもらえませんか」
「朔夜……」
「お願いします。僕は自分が何者なのか知りたいんです」
老師は長い間沈黙していたが、やがて重い口を開いた。
「あの日、お前は霞ヶ丘公園で一人佇んでいた。まるで記憶を失った子供のように、ぼんやりと空を見上げていた」
朔夜の胸が高鳴る。
「記憶を失った……ということは、やはり僕の記憶は」
「詳しいことは分からん。ただ、お前の瞳には深い悲しみが宿っていた。まるで大切な何かを失ったかのような」
紬が朔夜の手をより強く握った。彼女の温かさが、朔夜の不安を少しだけ和らげる。
その時、店の外から奇妙な唸り声が聞こえてきた。三人は身構える。
「忘却獣……?」老師が呟く。
だが、朔夜にはその気配が普通の忘却獣とは異なることが分かった。もっと知性的で、意図を持った存在の気配。
「まさか……」
朔夜の脳裏に、黒羽憂の美しくも冷酷な顔が浮かんだ。そして同時に、なぜか懐かしいような、既視感のような感情が胸の奥で蠢いた。
なぜ自分は黒羽憂を見た時、初対面のはずなのに妙な感覚を覚えたのだろうか。そしてその答えは、失われた記憶の中に隠されているのではないだろうか。
外の気配はやがて遠ざかっていったが、朔夜の心に刻まれた疑念は、ますます深くなるばかりだった。