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影絵師と零れ落ちる記憶

7

失われた顔

夜想 遥 | 2026-03-26

椿野古書店の奥座敷で、朔夜は紬と向かい合って座っていた。昨夜の会話から一夜明け、二人の間には新たな決意が宿っている。忘却獣との戦いを前に、朔夜は自分の能力をさらに深く理解する必要があった。

「朔夜様、お客様がいらしておりますよ」

 椿野老師の声に振り返ると、店の入り口に小さな人影が立っていた。十歳ほどの少女で、薄汚れた制服を着て、大きな瞳を不安げに揺らしている。

「あの……影絵師さんって、ここにいますか?」

 少女の声は震えていた。朔夜は紬と顔を見合わせ、立ち上がる。

「僕だ。何か困ったことでも?」

 少女は安堵の表情を浮かべ、深々と頭を下げた。

「私、桜井みなみです。お母さんとお父さんの顔が、思い出せなくなっちゃって……」

 みなみの話によると、三日前の朝に目覚めた時から、家族の記憶が曖昧になってしまったという。家の場所や日常の出来事は覚えているのに、肝心の両親の顔だけがどうしても思い出せない。

「それは辛いですね」紬が優しく声をかける。「ご両親様はいかがなさっておられるのですか?」

「それが……家に帰っても、誰もいないんです。近所の人に聞いても、みんな知らないって」

 朔夜の胸に不安がよぎった。記憶を失うだけでなく、実在の証拠まで消えているとすれば、これは単純な記憶障害ではない。

「分かった。君の記憶を見てみよう」

 朔夜は影絵の道具を取り出し、みなみを椅子に座らせた。白い壁に向けて光源を設置し、手を翳す。

「リラックスして。家族と過ごした時間を思い浮かべて」

 みなみが目を閉じると、朔夜の指先から影が立ち上がった。壁に映し出されたのは、温かな家庭の風景。食卓を囲む三人の人影、一緒にテレビを見る姿、公園で遊ぶ様子。

 しかし、両親の影だけが異様だった。顔の部分が真っ黒に塗りつぶされ、まるで墨を流したように濃い闇に覆われている。

「これは……」

 紬が息を呑んだ。朔夜も動揺を隠せない。記憶の影絵で、特定の部分だけがこのように闇に覆われるのは初めて見る現象だった。

「お父さん、お母さんの顔が見えない……」みなみが泣きそうな声で呟く。「やっぱり思い出せないんです」

 朔夜は影絵を続けながら、記憶のより深い層を探った。母の記憶から受け継いだ知識が警告を発している。これは自然な記憶の欠損ではない。

「待って……これは」

 記憶の奥底で、朔夜は奇妙な痕跡を発見した。黒い塗りつぶしの境界線が、あまりにも人工的すぎる。まるでペンで丁寧に塗り潰されたように、幾何学的な正確さを持っていた。

「紬、これを見て」

 朔夜は記憶の断面を影で示す。紬の表情が凍りついた。

「禁忌の記憶……そのようなものがあるとは聞いておりましたが」

「禁忌の記憶?」

「記憶番人の間で語り継がれる伝承です。意図的に封印され、二度と呼び起こしてはならない記憶のことを」紬の声が震える。「しかし、それは伝説に過ぎないと……」

 椿野老師が奥から現れ、険しい表情で影絵を見つめた。

「やはりそうか。朔夜、その記憶はもう触れない方がいい」

「でも、この子の家族の記憶が」

「家族などいない」老師の断言に、みなみが顔を上げる。「その記憶は人工的に植え付けられたものだ。そして、なんらかの理由で封印された」

 朔夜の心臓が早鐘を打った。記憶を植え付ける技術——それは母が研究していた分野だった。

「朔夜様」紬が手を伸ばす。「危険です。その記憶に深く踏み込めば」

「でも、この子は本当に苦しんでいる」

 朔夜は再び手を翳した。今度はより深く、記憶の核心に向かって能力を伸ばす。黒い塗りつぶしの向こう側に、何かが隠されているのを感じた。

 突然、影絵が激しく歪んだ。壁に映った家族の記憶が崩れ始め、その奥から別の映像が浮かび上がる。白い研究室、実験台に横たわる少女、そして——

「やめろ!」

 椿野老師の怒号と共に、影絵が消失した。朔夜は激しい頭痛に襲われ、その場に膝をつく。

「朔夜様!」

 紬が駆け寄る中、みなみの姿も薄れ始めていた。まるで陽炎のように、少女の輪郭がぼやけていく。

「私……私、誰だったんでしょう」みなみの声が遠ざかる。「本当の私は、どこにいるんでしょう」

 そして少女は、跡形もなく消え去った。

 静寂が古書店を支配する。朔夜は床に手をつき、荒い息を吐いていた。

「あれは……記憶の残像だったのか」

「ああ」椿野老師が重々しく頷く。「人工記憶の実験体の残滓だ。本体はとうの昔に失われている」

 紬が朔夜の肩に手を置いた。

「朔夜様のお母様が関わっておられたのでは……」

 朔夜は立ち上がり、窓の外を見つめた。霞ヶ丘市の街並みが夕日に染まっている。どこかで、まだ多くの禁忌の記憶が眠っているに違いない。

「母さんは一体、何を研究していたんだ」

 母・澪の記憶を受け継いだはずなのに、最も重要な部分が封印されている。そしてその封印を解く鍵は、忘却獣を操る黒羽憂が握っているのかもしれない。

「朔夜、お前の本当の戦いは、これから始まる」椿野老師が静かに告げる。「記憶の真実に向き合う覚悟はあるか?」

 朔夜は振り返り、紬の澄んだ瞳を見つめた。そこには揺るぎない信頼があった。

「ああ。どんな真実が待っていても、俺は知らなければならない」

 夕闇が街を包み始める。記憶を巡る戦いは新たな局面を迎えようとしていた。

第7話 失われた顔 - 影絵師と零れ落ちる記憶 | 福神漬出版