黒羽憂の言葉は、朔夜の胸に重い石のように沈んでいた。明日の夜――想起の間での最後通告まで、残された時間はわずかだった。
古書店『記憶の小径』の扉を押し開けると、いつものように線香の香りが鼻を擽った。しかし今日は、その奥に古い紙と墨の匂いが混じっている。椿野老師が奥の書庫から何かを引っ張り出しているようだった。
「老師」
朔夜の声に、奥から物音が止んだ。やがてほこりまみれの老師が顔を出す。いつもの飄々とした表情に、どこか覚悟めいたものが混じっていた。
「朔夜君か。ちょうど良いところに来てくれた」
老師の手には、見たことのない古い革装丁の書物があった。表紙には複雑な模様が刻まれ、その中央に影絵のような人影が浮かび上がっている。
「これは?」
「君に見せる時が来たと思ってね。座りたまえ」
朔夜は言われるままに椅子に腰を下ろした。老師は書物を丁寧にテーブルに置くと、深いため息をついた。
「朔夜君、君は自分の能力について疑問に思ったことはないかね?なぜ君だけが記憶を影絵として映し出せるのか」
「それは……生まれつきの特殊な能力だと」
「違う」老師は静かに首を振った。「君の能力は偶然生まれたものではない。これは代々受け継がれてきた、古い系譜の賜物なのだ」
老師は革装丁の書物を開いた。そこには古い文字で記された文章と、影絵の図版がびっしりと並んでいる。
「『影絵師の系譜』――これは約三百年前から続く、君と同じ能力を持つ者たちの記録だ」
朔夜の心臓が激しく鼓動を始めた。ページをめくる老師の手に合わせて、様々な人物の影絵が現れては消えていく。男性も女性も、若い者も年老いた者も、皆が同じように記憶を操る能力者の姿で描かれていた。
「初代影絵師・夕凪蒼月。江戸時代中期の人物だ。彼が最初に記憶を影として映し出す術を会得した」
老師が指差すページには、朔夜によく似た面立ちの男性が描かれている。その周りには無数の影絵が舞い踊り、まるで記憶そのものが生きているかのようだった。
「夕凪……それは僕の」
「そう、君の姓だ。偶然ではない。君は確実に影絵師の血統なのだよ」
朔夜の手が震えた。自分の能力の源泉が、こんなにも古い歴史を持っていたなんて。
「影絵師たちは代々、失われた記憶を蘇らせ、人々の心の傷を癒やす使命を負ってきた。しかし同時に、その能力故に過酷な運命も背負ってきた」
老師はページをめくり続けた。そこには様々な影絵師たちの生涯が記されている。ある者は記憶の重圧に耐えかねて狂死し、ある者は能力を悪用して身を滅ぼした。そして多くの者が、若くしてその生涯を終えている。
「なぜこんなことを今になって」朔夜の声がかすれた。
「君が直面している状況を見て、もはや隠しておくことはできないと判断した」老師の表情が厳しくなる。「影絵師の宿命とは、記憶を守ることだけではない。時として、記憶を破壊する者と対峙しなければならない運命にあるのだ」
老師が開いたページに、朔夜は息を呑んだ。そこには黒い衣を纏った男の影絵が描かれており、その周りには無数の忘却獣らしき化け物が蠢いている。
「忘却の使徒――それが影絵師と対をなす存在だ。記憶を破壊し、人々の心を虚無に導く。歴代の影絵師たちは皆、この忘却の使徒たちと戦い続けてきた」
「まさか、黒羽憂も」
「その可能性は高い。いや、ほぼ間違いないだろう」
朔夜の胸に、重い現実がのしかかってきた。自分の能力は偶然の産物ではなく、三百年にわたって続く宿命の一部だったのだ。そして今、その宿命が再び彼の前に立ちはだかろうとしている。
「しかし朔夜君、君には歴代の影絵師にはなかった特別な要素がある」
「特別な要素?」
老師は別のページを開いた。そこには二つの影絵が寄り添うように描かれている。一つは影絵師、もう一つは巫女のような衣装を着た女性だった。
「記憶番人との協力関係だ。過去の影絵師たちは皆、孤独に戦い続けた。しかし君には織部紬がいる。記憶番人の末裔との絆は、新しい可能性を開くかもしれない」
朔夜は紬の困惑した表情を思い出した。掟と感情の間で揺れ動く彼女の姿を。
「でも紬は今、迷っている。記憶番人としての使命と、僕への想いの間で」
「だからこそ、君が支えなければならない」老師は書物を静かに閉じた。「影絵師の宿命とは、一人で背負うものではない。大切な人と共に歩むものなのかもしれない。それが君の代で証明されるのかもしれないのだ」
朔夜は立ち上がり、窓の外を見つめた。夕暮れが霞ヶ丘市を包み込み、街の向こうに見える古い建物群が薄暗い影を作り出している。あの地下深くに眠る想起の間で、明日の夜、すべてが決まるのだ。
「老師、僕はどうすれば」
「君自身の心に従いたまえ。影絵師の血は君に力を与えるが、それを使うのは君の意志だ。そして忘れてはならない――君は一人ではない」
朔夜は振り返った。老師の優しい眼差しが、彼を見つめている。
「三百年の系譜の重圧に負けてはいけませんか」
「重圧ではない。君を支える力なのだ」老師は微笑んだ。「歴代の影絵師たちの想いが、君の中に息づいている。彼らの経験も、失敗も、すべてが君の糧となる」
古書店を出る時、朔夜の心は複雑な感情で満たされていた。自分の能力の由来を知った興味と、同時に背負うことになった宿命の重さ。しかし老師の言葉通り、自分は一人ではない。紬がいる。そして三百年にわたって続いてきた影絵師たちの想いがある。
街を歩きながら、朔夜は無意識に影絵を作っていた。街灯の光が彼の手に影を落とし、そこに小さな鳥の形が浮かび上がる。その鳥は羽ばたくように動き、やがて夜空に向かって飛び立つような仕草を見せた。
明日の夜、想起の間で何が起こるのか。黒羽憂は本当に忘却の使徒なのか。そして紬は、どんな選択をするのか。
朔夜は空を見上げた。満月が雲間から顔を出し、霞ヶ丘市全体を銀色の光で照らしている。三百年前の初代影絵師も、同じ月を見上げたことがあるのだろうか。
その時、街の向こうから微かに紬の気配を感じた。彼女も今、同じ月を見上げているのかもしれない。そして同じように、明日への不安を抱えているのかもしれない。
朔夜は歩みを速めた。影絵師の系譜を背負った今、彼にできることは一つだった。紬と共に、新しい道を切り開くこと。たとえそれがどんなに困難な道のりであっても。