朝霧が立ち込める霞ヶ丘市の郊外で、一夜にして奇妙な森が出現したという報せが椿野老師のもとに届いたのは、『影絵師の系譜』を読み終えた翌日のことだった。
「忘却の森、と呼ばれておる」
椿野老師は古書店の奥で湯気の立つ茶を啜りながら、深刻な表情を浮かべていた。朔夜と紬は向かい合って座り、老師の言葉に耳を傾けている。
「一晩のうちに生え揃った木々が、まるで何十年もそこにあったかのような佇まいを見せているという。そして、その森に足を踏み入れた者は皆、記憶を失って戻ってくるのじゃ」
「記憶を、失う?」
紬の声が僅かに震えた。記憶を守護する一族の末裔である彼女にとって、記憶の喪失ほど恐ろしいものはない。
「ああ。完全に失うわけではないらしいが、森で何を見たか、何を感じたかを思い出せない。まるで霧の中を歩いているような感覚だったと、証言者たちは口を揃えて言っておる」
朔夜は窓の外に目をやった。遠くに見える山並みの向こうに、その森があるのだろうか。昨日読んだ系譜の中にも、似たような現象についての記述があった気がする。
「これも、忘却の使徒の仕業でしょうか」
「可能性は高い。黒羽憂が関わっているかもしれん」
椿野老師の表情が一層険しくなった。
「朔夜よ、紬よ。危険は承知の上で頼みたい。その森を調べてもらえんか」
朔夜は迷わず頷いた。影絵師の血を継ぐ者として、記憶を脅かす存在と戦うのは宿命なのだ。紬もまた、静かに首を縦に振る。
「承知いたしました。記憶番人として、見過ごすわけにはまいりません」
「ただし、二人とも細心の注意を払うのじゃぞ。記憶を失えば、お主らの能力も意味をなさなくなる」
午後の陽射しが傾き始めた頃、朔夜と紬は霞ヶ丘市郊外へと向かった。バスに揺られること一時間、終点で降りた二人の前に、確かに昨日まではなかったはずの森が広がっていた。
「本当に、一夜にして…」
紬の呟きに朔夜も同感だった。樹齢数十年はありそうな杉や檜が立ち並び、その間を縫うように細い獣道が続いている。しかし、どこか不自然な静寂が森全体を包んでいた。鳥の声も虫の音も聞こえない。
「朔夜さん、もし私たちが記憶を失いそうになったら…」
「その時は、影絵を使う。きっと何かの手掛かりになるはずだ」
朔夜は紬の手を取った。温かな手の感触が、今この瞬間の記憶を確かなものにしてくれる。
「一緒にいよう。離れ離れになったら、きっと危険だ」
手を繋いだまま、二人は森の入り口に足を向けた。最初の一歩を踏み出した瞬間、ひんやりとした空気が頬を撫でていく。それは単なる木陰の涼しさではない、もっと深い冷たさだった。
森の中は薄暗く、頭上を覆う枝葉の隙間から差し込む光が、まだらな影を地面に落としている。足元に積もった落ち葉は、踏みしめても音を立てない。まるで音そのものが森に吸収されてしまうかのようだった。
「おかしい」
歩き始めて十分ほどが経った時、朔夜が立ち止まった。
「何がでしょうか」
「さっきから同じような景色が続いている。道が真っ直ぐなはずなのに、なぜか円を描いて歩いているような感覚がある」
紬も周囲を見回した。確かに、似たような木々が並んでいる。だが、本当に同じ場所を歩いているのだろうか。それとも、単に森の木々が似通っているだけなのか。
「私も…何だか頭がぼんやりして」
紬の声に不安が滲んだ。朔夜は彼女の手を握る力を強めた。
「大丈夫だ。俺がついている」
しかし、朔夜自身も徐々に奇妙な感覚に襲われ始めていた。自分たちがなぜここに来たのか、何を探しているのかが曖昧になっていく。まるで霧が頭の中に入り込んで、思考を包み込んでいくようだった。
「朔夜…さん?」
紬が振り返った時、彼女の瞳に困惑の色が浮かんでいた。
「私たち、どうして森にいるのでしょうか」
その問いかけに、朔夜は言葉を失った。確かに理由があったはずなのに、それが思い出せない。大切な目的があったような気がするのに、それが何だったのか霧の向こうに霞んでしまっている。
「俺たちは…」
朔夜が答えようとした時、森の奥から微かな笑い声が聞こえてきた。冷たく、美しく、そしてどこか嘲るような響きを持った声。
「ようこそ、忘却の森へ」
声の主が姿を現した。黒いコートに身を包んだ美しい男性。長い黒髪が風もないのに揺れている。
「黒羽…憂」
朔夜の口から、その名前が零れ落ちた。なぜその名前を知っているのか、なぜ敵意を抱いているのか、理由は思い出せない。だが、この男が危険な存在であることだけは、本能が警告していた。
「記憶というものは儚いものですね。特に、その記憶に頼って生きている者にとっては」
黒羽憂が手を軽く振ると、森の木々がざわめき始めた。葉擦れの音ではない。まるで森そのものが生きているかのような、不気味な鼓動のような音。
「あなたたちの記憶も、じきに私のものになる。影絵師の能力も、記憶番人の使命も、すべて忘れてしまえばただの少年少女。なんと平和なことでしょう」
朔夜は必死に記憶を辿ろうとした。影絵師。記憶番人。これらの言葉に重要な意味があることは分かる。だが、その詳細が掴めない。
その時、紬の手が自分の手を強く握り返すのを感じた。その感触が、朔夜の中で何かを呼び覚ます。
「紬…」
「朔夜さん、思い出して。あなたの影絵を」
朔夜は右手を前に差し出した。本能が、そうするべきだと告げていた。薄暗い森の中で、手のひらに影が踊り始める。それは二人の少年少女の影絵だった。手を繋いで立つ、自分たちの姿。
影絵を見つめているうちに、記憶の断片が戻ってきた。椿野老師の古書店。忘却の森の調査。そして、記憶を守るという使命。
「そう簡単には忘れさせない」
朔夜の声に力が戻った。影絵がより鮮明になり、森の中に温かな光を放つ。
黒羽憂の表情が僅かに変わった。
「興味深い。忘却の力に抗うとは。しかし、これは始まりに過ぎません」
男の姿が霧のように薄れていく。
「この森で、あなたたちの記憶がどこまで持つか見物させてもらいましょう」
笑い声だけが残り、黒羽憂の姿は完全に消えた。朔夜と紬は再び森の静寂の中に取り残される。
「記憶が戻ったのは一時的なものかもしれません」
紬が不安そうに呟いた。
「なら、早くこの森の秘密を突き止めよう。きっとこの森のどこかに、忘却の力の源があるはずだ」
朔夜は影絵を消さずに保持した。記憶を繋ぎ止める錨として、この小さな光が必要だった。
しかし、森はまだ彼らに多くの試練を用意しているようだった。歩みを進めるにつれ、再び記憶の霧が濃くなっていく。果たして二人は、この忘却の迷宮から抜け出すことができるのだろうか。