夜が深まる中、朔夜と紬は霞ヶ丘市の繁華街を歩いていた。偽記憶に操られた人々は、まるで糸の切れた人形のように不自然な足取りで街を彷徨っている。ネオンの光が彼らの虚ろな表情を照らし出し、紬の胸に重い不安を落としていく。

「紬、大丈夫か?」

 朔夜の声に、紬ははっと我に返る。いつの間にか足を止めていた自分に気づき、慌てて首を振った。

「申し訳ありません。少し、考え事を」

「無理はするな。今夜は一度戻ろう」

 朔夜の優しい提案に、紬の心は更に乱れる。記憶番人として、この異常事態を一刻も早く解決しなければならない。それが一族に課せられた使命であり、自分が背負うべき責任だった。しかし、朔夜の身を案じる気持ちもまた、押し殺すことのできない真実だった。

「いえ、続けましょう。黒羽憂の手がかりを見つけねば」

 紬の言葉は決意に満ちていたが、その瞳には迷いの色が宿っていた。朔夜はそれに気づいていたが、あえて何も言わずに歩き続ける。

 二人は商店街の奥へと進んでいく。そこで紬は、記憶の気配に敏感に反応した。空気が微かに歪み、古い記憶の残滓が漂っている。

「朔夜様、こちらに」

 紬の案内で、二人は小さな路地に入る。そこは昼間でも薄暗く、今は更に深い闇に包まれていた。壁には古い落書きが残り、記憶の痕跡が幾重にも重なっている。

「ここは...」

 朔夜が呟いた時、紬の脳裏に祖母の言葉が蘇った。

『紬よ、記憶番人の掟を忘れてはなりません。私たちは記憶を守護する存在。個人の感情に惑わされてはいけないのです』

 祖母の厳しい声が、紬の心を締め付ける。記憶番人は代々、感情を捨て、使命に生きることを教えられてきた。恋愛感情など、もってのほかだった。

 しかし、朔夜と過ごす時間は、紬にとって何物にも代えがたい宝物だった。彼の影絵を見る時の集中した横顔、困った人を見過ごせない優しさ、時折見せる寂しげな表情。全てが紬の心に深く刻まれている。

「紬?」

 朔夜の心配そうな声に、紬は慌てて意識を現実に戻す。

「申し訳ありません。記憶の気配が強くて」

 嘘だった。記憶の気配ではなく、自分の心の乱れに動揺していたのだ。このような状態で、果たして記憶番人としての役目を果たせるのだろうか。

 その時、路地の向こうから人影が現れる。偽記憶に操られた中年男性だった。男性は虚ろな目で二人を見つめ、ぶつぶつと何かを呟いている。

「あの日、確かに見たんだ。美しい花火大会を。みんなで笑って、楽しくて...」

 男性の語る記憶は、どこか不自然だった。感情が薄く、まるで台本を読むような口調だった。紬は記憶番人の力で、その記憶の正体を探ろうとする。

 しかし、集中しようとした瞬間、また祖母の声が聞こえる。

『感情に流されてはいけません。朔夜に対する想いは、あなたの使命を曇らせるでしょう』

 紬の手が微かに震える。力が上手く発動しない。心の迷いが、記憶番人としての能力に影響を与えているのだ。

「紬、下がって」

 朔夜が前に出る。彼の手から影絵が立ち上がり、男性の真の記憶を映し出そうとする。しかし、偽記憶の壁は厚く、なかなか破ることができない。

「朔夜様、お手伝いを」

 紬は自分の力で朔夜を支えようとするが、再び迷いが頭をもたげる。このまま朔夜と共に戦い続ければ、想いはますます深くなるだろう。そして最終的に、記憶番人としての道を踏み外してしまうかもしれない。

 一族の掟では、記憶番人は生涯独身を貫き、記憶の守護にのみ身を捧げることとされていた。恋愛は禁忌。ましてや、朔夜は記憶を影絵として映し出す特殊な能力者。普通の人間ではない。

『あなたは一族の希望なのです。その力を個人の感情で無駄にしてはいけません』

 祖母の言葉が、まるで呪縛のように紬を縛る。

「くっ」

 朔夜の苦しそうな声が聞こえる。偽記憶の抵抗が予想以上に強く、一人では限界があった。紬の協力が必要だった。

 紬は葛藤する。今すぐ朔夜を助けるべきか、それとも距離を置くべきか。心は朔夜を助けたいと叫んでいるが、理性は掟を守るよう命じている。

「朔夜様...」

 ついに、紬は決断する。心の声に従い、朔夜の元へ駆け寄ろうとした時、背後から声が聞こえた。

「迷っているのですね、織部紬」

 振り返ると、そこには黒羽憂が立っていた。美しい顔に冷たい笑みを浮かべ、まるで全てを見透かしているような眼差しを向けている。

「黒羽憂...!」

 朔夜が振り返るが、偽記憶に集中していた反動で、膝をつく。

「掟と感情の間で揺れる記憶番人。なんとも哀れな姿ですね」

 黒羽憂の言葉が、紬の心をえぐる。

「一族の教えに従い、感情を捨てるのか。それとも、心のままに生きるのか。どちらを選んでも、あなたは苦しむことになる」

「黙りなさい!」

 紬は声を荒らげるが、黒羽憂は動じない。

「私が偽記憶を広めているのも、人々の苦悩を軽減するためです。辛い記憶を忘れ、美しい記憶だけで生きられたら、どれほど楽でしょうか」

「それは...それは間違いです」

 紬の声は震えている。黒羽憂の言葉には、確かに一理あった。記憶による苦痛を知る紬だからこそ、その誘惑は強い。

「朔夜への想いも、手放してしまえば楽になりますよ。掟に従い、静かに生きていけば」

「やめろ」

 朔夜が立ち上がる。傷ついた身体を引きずりながらも、紬を庇うように前に出る。

「紬の心に勝手に土足で踏み込むな」

 朔夜の怒りの声に、紬の心は激しく揺れる。彼は自分を守ろうとしてくれている。この想いを、果たして捨てることができるのだろうか。

 黒羽憂は薄く笑う。

「では、選択の時間を差し上げましょう。明日の夜、想起の間で待っています。掟を取るか、感情を取るか。その答えによって、この街の運命も決まるでしょう」

 そう言い残すと、黒羽憂は闇に溶けるように消えていく。後には、偽記憶から解放された男性と、互いを見つめる朔夜と紬だけが残された。

「紬...」

 朔夜の呼びかけに、紬は顔を上げることができない。心の奥底で、もう答えは決まっているのに、それを受け入れることができずにいた。

影絵師と零れ落ちる記憶

23

紬の迷い

夜想 遥

2026-04-12

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第23話 紬の迷い - 影絵師と零れ落ちる記憶 | 福神漬出版