翌朝、澄乃は柊屋を発つ前に一郎へ一言断りを入れた。父の具合を見舞いたいと告げると、彼は短く頷いただけで、余計な問いを挟まなかった。その無言が、前夜の蔵の出来事をまだ二人の間に横たわらせているようで、澄乃は玄関の敷石を踏みながら小さく息を吐いた。
空は白く濁り、梅雨の名残が路地の石畳に滲んでいた。
藤原家の門をくぐると、家の古さが身に沁みた。かつては門前に車夫が控え、奥座敷に客の声が絶えなかったはずのこの屋敷も、今は塀の漆喰が剥げ、玄関脇の槿が誰に手入れもされぬまま伸び放題になっている。それでも澄乃には、この朽ちかけた家の匂いが懐かしかった。黴と畳と、どこかに残る線香の残り香。家という生き物の、老いた息吹。
「澄乃か」
廊下の奥から、しわがれた声が届いた。父・藤原惟光は褥の上に上体を起こし、薄い目で娘を迎えた。この春から床に臥しがちになり、澄乃が柊屋へ奉公に出た本当の理由の一つも、薬代の工面にあった。表向きは家の者がそう言い触らすのを黙認したが、父はその事情を誰よりも恥じており、だからこそ澄乃は帰るたびに努めて明るく振る舞う。
「お顔の色がよろしゅうございます」
「嘘をつくな、そんな顔色をしているものか」
父は笑ったが、確かに以前より頬の肉が落ちていた。澄乃は布団の縁に座り、父の手を取った。骨張った、しかしかつて筆を持ち書を認めた手。
枕元に視線を向けると、そこに古い額縁が置かれていた。
——いつもそこにある絵だった。
幼い頃から見慣れた肖像画。縦一尺ほどの小さな和紙に、墨と淡い紅で描かれた女人の顔。公家の正装である十二単をまとい、長く黒い髪を流した姿。目はやや伏せ気味で、唇の端がほんのわずか、笑みとも悲しみともつかぬ形に結ばれている。
朱乃の絵だと、父から聞かされたのはいつのことだったか。
「お父様」と澄乃は言った。「朱乃様のことを、もう一度聞かせてくださいませ」
父が少し目を細めた。
「また、あの話か」
「柊屋の蔵で……少し気になることがあったのです。詳しくは申せませぬが」
惟光は長い間黙っていた。それから静かに、廊下の先を向いたまま語り始めた。
「朱乃は、幕末の頃の姫だ。藤原の傍流……いや、本流と呼んでもよい血筋の、最後の一人だった。美しい娘だったと伝わっておる。学もあり、和歌を得意とし、何より人の痛みに敏い性質だったと」
「消えたのは、慶応の頃でございましたね」
「そうだ。鳥羽伏見の戦の少し前。世の中が大きく揺れる、その直前に姿を消した」
澄乃は膝の上で手を重ね、父の声に耳を傾けた。
「当時、藤原の家には縁組の話が持ち上がっておったという。相手は商家の者だ。今で言えば柊屋のような——そう、呉服を商う家の息子だったと聞く。公家と商家の縁組など、当時としては異例のことよ。朱乃の父君が随分と反対したと伝わっておる」
「でも、朱乃様はその縁組を望んでおられた」
「そう伝わっておる。なぜそう思う」
「……なんとなく、そんな気がして」
惟光は娘の横顔をしばらく見つめてから、続けた。
「朱乃はある夜、ふいに屋敷から消えた。書き置きもなく、着の身着のままで。相手の商家の息子も、同じ夜に姿をくらましたという。二人で逃げたのか、あるいは誰かに連れ去られたのか——それが今もって知れぬ。ただ、その後どちらの骨も見つからず、生きて戻った者もなく、ただ噂だけが残った」
「噂、とは」
父は低く言った。
「朱乃の魂は成仏できず、今も彷徨うておると。誰かに宿り、誰かを通じて何かを伝えようとしていると。……馬鹿げた話だがな」
「馬鹿げてはおりませぬ」
澄乃は思わず強い声で言い、父が目を丸くした。
「失礼いたしました」と彼女は頭を下げたが、胸の内では何かが軋んでいた。
視線をもう一度、枕元の肖像画へ向ける。
朱乃の顔。伏せ気味の目。ほんのわずかに結ばれた唇。
——あの蔵の扉の隙間で見た、白い顔がよみがえる。
扉の向こうに佇む人形。暗がりの中で見えたのはほんの一瞬で、しかも生乾きの着物を持って立っていた自分には、落ち着いて観察する余裕などなかった。それでも、あの白い顔の輪郭と、この絵の中の顔が、どこか重なって見える。
気のせいだろうか。
似た顔など世の中にいくらでもある。百年前の絵師が描いた公家の姫と、呉服屋の蔵に収められた人形とが似ているからといって、それが何を意味するのか。澄乃は自分の思い込みを、理性で押しつぶそうとした。しかし押しつぶしたそばから、また浮かび上がってくる。
目の形が、似ている。
唇の、あの結び方が。
「澄乃」
父の声で、我に返った。
「柊屋で、何かあったのか」
「……いいえ」
澄乃は笑ってみせた。「ただ、少し疲れが出ただけでございます。父上のお顔を見たら、すっきりいたしました」
惟光はしばらく娘を見ていたが、やがて静かに目を閉じた。「そうか」とだけ言い、その後は眠ったようだった。
澄乃は父の寝顔を見守りながら、再び絵に目を向けた。
——朱乃様。
あなたは今、どこにおられますか。
人形の中に宿るというのは、本当のことですか。
そして柊一郎様は、あの蔵に何を隠しておられるのですか。
問いだけが積み重なる。答えはまだ、どこにもない。
けれど澄乃の胸の奥で、細い糸が一本、静かに引かれた気がした。実家と柊屋とを結ぶ糸が。今と百年前とを繋ぐ糸が。
外では雨が降り始めていた。梅雨の雨ではなく、もっとひっそりとした、夏の前夜のような雨だった。
澄乃は膝の上で拳を握り、朱乃の肖像画をじっと見つめた。
その目が、どうしても一郎の顔に重なって見えた。孤独で、何かを抑えていて、けれど深いところに炎を持っているあの目。
——違う、と首を振る。
しかし振り払っても、絵の中の朱乃は変わらず伏し目がちに笑んでいる。
澄乃が立ち上がり、父の部屋を辞したのは、昼を少し過ぎた頃だった。門を出るとき、ふと足を止めて振り返る。古い屋根の向こうに、曇り空が広がっていた。
——いつか、と彼女は思った。
いつかこの空の下で、朱乃の話の続きを知ることになる。その予感が、雨の匂いとともに胸に落ちた。
しかしそれが何をもたらすのか、今の澄乃にはまだわからなかった。わからないまま、彼女は柊屋への道を歩き出した。濡れた石畳の上を、一歩ずつ、確かめるように。