秋の雨が、西陣の石畳を濡らしている。
軒を伝う雨粒がひとつひとつ、糸のように細く落ちてゆく様を、澄乃は台所の格子窓から眺めていた。
三日前から始まった雨は止む気配もなく、柊屋の広い屋敷に湿り気を運んでくる。縁側の板も、廊下の板も、足の裏から冷たさが這い上がるようで、澄乃は白足袋の指先をそっと丸めた。
実家から戻って以来、澄乃の胸の底には静かな火が点いている。
父の惟光の言葉が、眠れぬ夜に幾度も蘇った。——朱乃は消えたのではない、選んだのだ。何を選んだのかは、わからない。けれど、その選択が百年の時を越えてここまで澄乃を引き寄せたとすれば、この柊屋という場所は、ただの奉公先ではない。
人形の白い顔と、肖像画の面影が、重なっては離れ、離れては重なった。
——お嬢さまに似ておいでですよ。
番頭の清兵衛が呟いたあの言葉が、澄乃の耳にまだ残っている。
「藤さん」
不意に声をかけられ、澄乃は振り向いた。
糸が、廊下に立っていた。薄紫の色無地に黒帯を締め、いつものように隙のない装いで。唇には薄い微笑みを湛えながら、しかしその目は笑っていない。澄乃はここ数日でそれを学んだ。
「ちょうどよかった。帳場の古い台帳を整理してほしいのだけれど、頼めるかしら」
「はい、承ります」
「三年分あるのよ。傷みのひどいものは書き写して、新しい冊子に改めてちょうだい。文字は読めるでしょう?」
問いの中に棘が潜んでいることを、澄乃は既に知っている。読めるかどうかを訊いているのではない。どの程度の素養があるかを、試しているのだ。
「おかげさまで、多少は」
「そう。では夕刻までに。あ、それと——その前に、二階の座敷のお道具を虫干しに出しておいてくれる?雨だから早めにしないと間に合わないわね」
微笑みのままそれだけ言い、糸はさらりと廊下を去っていった。
雨の中で虫干しなど、できるはずもない。
澄乃は小さく息を吐いた。言葉の意味を考える間もなく、次の仕事が積み重なる。これで今朝からもう四度目だった。
朝一番に蔵の外壁の土落とし。続いて奥の間の畳の拭き掃除。それから倉庫に眠る端切れの仕分け。どれも急を要するわけでもなく、しかしひとつひとつを丁寧にこなせば、それだけで一日が暮れる。
お春が小声で教えてくれたのは、二日前のことだ。
「糸さまは、気に入らない奉公人を追い出すときに、あのお顔をなさるのよ」
人の好い丸顔を曇らせながら、お春は台所で澄乃の耳元に囁いた。
「疲れてへまをするのを待っておいでなの。そうしたら追い出す口実になるから」
澄乃には身に覚えがない。糸の機嫌を損ねるようなことは何一つしていないはずだった。しかし——澄乃は思う——もしかすれば、何かをしてしまったのかもしれない。気づかぬうちに、踏んではならぬ何かを踏んだのかもしれない。
座敷の道具を手早く片付け、雨の当たらぬ縁側の奥に仮置きした後、澄乃は帳場へ向かった。積み上げられた台帳は、糸が言った通り三年分——いや、よく見れば四年分あった。
澄乃は無言で硯を磨り始める。
家名よりも人の情を重んじると、澄乃はいつも自分に言い聞かせてきた。没落した藤原の家に生まれ、朽ちてゆく畳の上で育ちながらも、位や血よりも、今ここにある誠実さが大事だと信じてきた。だからこそ、奉公に上がることを父は止めなかった。娘の目で、この世界を見てこいと、惟光は言ったのだ。
しかし今、筆を走らせながら、澄乃は静かな疲弊を感じていた。
身体の疲れではない。見えない刃で、少しずつ削られているような感覚。澄乃に気づかれないよう、しかし確実に、糸は何かを探っている。「藤」という名。出自。素養。——何を、どこまで知っているのだろう。
硯の墨の香りが、古びた台帳の紙の匂いに混じる。
柊屋の商いは細かく記されていた。西陣の機屋との取引、糸の仕入れ、染めの工程。どれも丁寧な筆跡で、しかし三年目の途中から、筆致がわずかに変わっている。若く几帳面な、力のある字。
——一郎さまの字だろうか。
澄乃はそっと指先で文字の輪郭をなぞった。きっちりと整えられた字の中に、どこか押さえ込んだ激しさのようなものが透けて見える気がした。
気のせいかもしれない。
けれど澄乃は、柊一郎という人間がわからなかった。西洋の合理で物事を測り、感情を隠すことに慣れた顔をしながら、時折その奥から何かが漏れ出すような瞬間がある。蔵の前で立ち尽くしていたあの夜のように。
夕刻近く、台帳の書き写しを半分ほど終えたところで、お春が湯呑みを持ってきた。
「藤さん、少し休みなさい。顔色が悪いわよ」
「ありがとうございます。大丈夫です」
「大丈夫じゃないから言うてるんや」
お春は台帳の山を一瞥し、眉をひそめた。そうして澄乃の隣にしゃがみこみ、声を落とした。
「ねえ、藤さん。あんた、なんで糸さまに目ぇつけられてるか、わかる?」
「……わかりません」
「蔵や。先日の晩、あんたが蔵のそばにいるのを、糸さまが見てたんやと思う」
澄乃の手が止まった。
あの夜——一郎が蔵の前に立っていた夜。澄乃は廊下の端から、その背中を見ていた。気づかれないよう引き返したつもりだったが、糸はどこかで見ていたのだろうか。
「旦那さまが蔵へ行かれるのは」お春は更に声を低くした。「月命日なんよ」
「——月命日」
「誰の、とは聞かんといて。わたしも詳しいことは知らんのやから。ただ、旦那さまがあの蔵に入られるのは、毎月決まった日だけ。それ以外の日に誰かがあの辺うろついてたら、糸さまは黙っていない」
お春はそう言って立ち上がり、湯呑みを澄乃の手元に残して台所へ戻っていった。
月命日。
その言葉が、澄乃の胸の中で静かに沈んでゆく。
誰の、とは聞かないでほしいと、お春は言った。しかし澄乃の心の中では、もう答えのかたちが、ぼんやりと浮かび上がりつつあった。
人形のことを思う。白い顔。朱を引いた唇。百年前に消えた公家の姫の肖像と、あまりにも似た面差し。
一郎はあの蔵で、何に向かって月を数えているのだろう。
湯呑みの茶はもう冷めかけていたが、澄乃はゆっくりと口をつけた。苦みが舌の上に広がる。
蔵の中に、答えがある。
そして糸は、澄乃がその答えに近づくことを、恐れている。
澄乃は再び筆を持った。書き写しはまだ半分残っている。夕刻までに終えなければ、それが口実になる。今は、ただこなすことだ。疲れを顔に出さず、へまをせず、削られながらも削られたと気づかせない。
没落した家で育った娘は、消耗することには慣れている。
それでも、澄乃の胸の底に点った火は、消えなかった。
雨が少し強くなった。
屋根を打つ音が、帳場に満ちる。その音の向こうで、どこか遠く、蔵の古い錠前が、ひとり濡れているような気がした。