五月の風が西陣の路地を抜けるとき、機織りの音はいっそう高く響く。糸が緯と経を行き来するたび、どこかで誰かの息遣いが布の中に織り込まれていくようで、澄乃はその音を聞くたびに胸の奥が静かに揺れた。
帳場の整理を任されて三日が経つ。山と積まれた書付を分類し、蔵出し台帳の写しを清書し、使い走りの合間に女中頭のお春から仕事の段取りを教わる。慣れぬ帳場仕事に手が追いつかぬこともあったが、澄乃は決して弱音を零さなかった。公家の旧習で叩き込まれた筆の扱いが、こうした場所で思いがけず役に立った。
その日の午前中、柊屋の格子戸が軽やかに引き開けられたのは、澄乃が台帳の写しに没頭していた折のことだった。
「ごめんくださあい。宗像と申します。民俗学の研究で参りました」
入ってきたのは、二十五、六と見える若い男だった。細い金縁の眼鏡の奥に好奇心の色をたたえた目が光り、少し砕けた縦縞の洋装は、いかにも書生めいた清潔な着崩れ方をしている。帽子を胸に抱いたその様子はどこか鳥に似て、きょろきょろと店の内を見回しながら澄乃を認めると、あかるく頭を下げた。
「あなたがお春さんですか」
「いいえ、わたくしはすみと申します。奉公に上がったばかりで」
「ああ、そうでしたか。それはどうも」
男は屈託のない笑顔を見せた。人を疑わぬ、あるいは疑う必要を感じておらぬような笑顔である。澄乃は内心で少し身構えながら、お春を呼びに席を立った。
宗像哲三と名乗ったその青年は、帝国大学の研究室に籍を置く民俗学の学徒だということだった。京都府内に残る呪物信仰を調べて回っており、柊屋の蔵に伝わるという花嫁人形の噂を聞きつけてやってきたのだという。お春は「うちはただの呉服屋でございます」と笑って受け流したが、哲三は懲りる様子もなく、「ほんの少しでも話を聞かせていただければ」と食い下がった。
結局、お春が奥へ伺いを立てに行くあいだ、哲三は帳場の端に立って澄乃と向き合う格好になった。
「澄乃さん、でしたか。あなたも人形の話、ご存知ですか」
「存じません」
きっぱりと答えたのに、哲三はさして傷ついた様子もなく、眼鏡の蔓を人差し指で押し上げながら続けた。
「そうですか。でも、もし聞いてしまったらどうします。——西陣のこのあたり一帯には、百年ほど前に果たされなかった縁談があって、そのとき人形に閉じ込められた魂が今も成仏できずにいる、という話が残っているんです」
澄乃の指先がわずかに止まった。清書の筆を持ったまま、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「——それは、どのような」
「没落した公家と、近くの商家の縁談だったという話です。幕末の動乱で二人は引き離され、娘のほうが形見として遺した花嫁衣装を人形に着せたところ、その人形が夜ごと動いたとか、娘の声で泣いたとか。民間伝承の類ですが、興味深いのは、その話が柊屋さんの蔵のある場所と深く結びついているらしいことで——」
「宗像さん」
澄乃は静かに遮った。声は穏やかだったが、目に芯があった。
「わたくしは奉公に上がったばかりの者です。蔵のことも、お家のことも、何も存じません。お調べになりたいことがあれば、主人にお聞きになるのが筋ではないでしょうか」
哲三は一瞬きょとんとして、それからまた人の好い笑顔を浮かべた。
「おっしゃる通り。失礼しました。ただ——」
彼は声を少し低くして、覗き込むような目をした。
「あなたの顔を見ていると、なんだか不思議な気がして。初めて会った気がしないんですよね」
澄乃は答えなかった。胸の内で何かが波立ったが、それを面に出すことはしなかった。
お春が戻ってきて、今日のところは主人が不在ゆえ詳しい話はできかねると告げると、哲三は素直に引き下がった。「また改めて参ります」と笑って格子戸へ向かいながら、ふと振り返って澄乃に言った。
「あの和歌、ご存知ですか。——春泥に足をとられて立ちつくす、花嫁衣装の袖は濡れけり、というような」
澄乃の息が、一瞬詰まった。
それは、家に伝わる歌だった。澄乃の曽祖母が書き残したという古い料紙に、薄墨で記されていた歌だった。人に教えた覚えはなく、公けに知られているはずもない歌だった。
「——どこでその歌を」
「ああ、失礼。文献で見たんです。幕末のとある家の歌集に収録されていた、と。もしご存知でしたら、また教えてください」
哲三は軽く帽子を被り、春の路地へ消えていった。
澄乃はしばらく、その格子戸を見つめていた。
*
その日の夕刻、澄乃は廊下の隅で独り、胸の中の波を静めようとしていた。あの歌が他人の口から出てくるとは思っていなかった。夢の中で緋色の打掛をまとった女が告げた言葉も、家伝の和歌も、それぞれ別々に澄乃の中に沈んでいたはずのものが、哲三という男の登場でいっせいに浮かび上がってきたような心地がする。
人形に宿るとも囁かれる朱乃という名を、澄乃はまだ誰からも聞いていなかった。それでも夢の中の女の顔が頭から離れず、春泥に足をとられて、という歌の一節が耳の奥に繰り返された。
警戒すべきだ、と澄乃は自分に言い聞かせた。哲三が調べていることが、澄乃の素性に繋がらないとも限らない。公家の末裔だということが知れれば、奉公の名目は崩れる。柊屋にいる理由が消える。
それでも。
あの男の笑顔は、澄乃が知っている大人の男の笑顔ではなかった。利を計る目でもなく、人を品定めする目でもなかった。ただ、世界を面白がっている目だった。そういう目をした人間を、澄乃は長い間、身近に見たことがなかった。
廊下の奥から、衣擦れの音がした。
振り返ると、柊糸が立っていた。
一郎の叔母である糸は、いつ見ても隙のない装いで、今日も濃紺の小紋に帯をきりりと締め、澄乃を見下ろす目には常と変わらぬ試すような光があった。
「今日の客の話、聞いておいでかえ」
糸の声は低く、静かだった。
「帳場におりましたので、少し」
「民俗学の学士さんね。物好きなことで」糸は薄く笑った。「あの方がまた来るようなら、蔵のことは何も言わないように。一郎さんの留守中に余計な話が広まっては困るから」
「承知いたしました」
澄乃は頭を下げた。糸はそれきり踵を返したが、立ち去り際に一度、肩越しに振り返った。その目が、澄乃をじっくりと測るようにひとしきり止まった。
「——よく似ておいでだこと」
呟くように言って、糸は廊下の闇に溶けていった。
澄乃は動けなかった。何に似ているというのか。問い返す間もなかった。
夜、床に就いて目を閉じると、白い靄の向こうに緋色が揺れる気配がした。今夜こそ夢に落ちれば、また会えるかもしれない。それが怖いのか、それとも望んでいるのか、澄乃にはもうよく分からなかった。
ただ、春泥に足をとられて立ちつくす、という歌の一節だけが、眠りの縁をゆらゆらと漂い続けた。