夢の中は、いつも白かった。
靄というより、光そのものが溶けているような白さで、地面があるのかも、天井があるのかも、澄乃にはわからなかった。ただ足の裏に、ひんやりとした何かが触れている。石の感触でも、板の感触でもない。もっと古いもの——土が長い年月をかけて固まり、幾千の足に踏まれ、歴史を吸い込んで黒ずんだような、そういう感触だった。
女は、最初は遠くにいた。
白い靄の向こうに、緋色の何かがある、とだけ澄乃は思った。次の瞬間にはもう、ずっと近くに立っていた。距離が縮まったのか、それとも女が近づいてきたのか、夢の論理はそのどちらでもなかった。ただ、いる。そこに、確かに。
引きずるほど長い打掛の、深い緋色。帯は白銀で、花の刺繡が施されている——梅か、それとも桜か、靄のせいではっきりとは見えない。そして顔。澄乃は咄嗟に息を吞んだ。
整っている、という言葉では足りなかった。磨き上げられた、とも違う。ただ、そこに在る——そういう種類の美しさだった。白粉を塗ったような白い肌と、濡れたように黒い髪。目元に差された紅が、靄の中でだけ鮮やかに燃えている。
女は、澄乃をじっと見つめていた。
「また会えた」
声は低くて、しかし澄乃の耳の奥まで届いた。まるで水の底から響いてくるような、そういう質の声だった。
また、と女は言った。澄乃はその一字に引っかかった。また——ということは、以前にも会ったことがある、と女は思っている。しかし澄乃には、この女に覚えがない。夢の中でさえも、それだけは確かだった。
「あなたは、」と澄乃は言いかけた。
女は微かに笑んだ。笑むのに、目が笑わなかった。哀しみとも違う。もっと深いところに沈んだ、長い年月の重さのようなものが、その瞳には湛えられていた。
「急かすつもりはない」
女が一歩、近づいた。打掛の裾が靄の中に溶ける。
「でも、もう時が来ている。あなたは感じているでしょう。この胸の内で、何かがほどけていくのを」
澄乃は、胸に手を当てた。そこに、確かに何かがあった。じわりと温かい、しかし同時に締め付けられるような——うまく言葉にできない感覚。
女がもう一歩、近づいた。手が伸びてくる。細い、白い指が澄乃の頬に触れようとした——その瞬間、
白さが、弾けた。
澄乃は目を開けた。
天井が見えた。細い格子窓から、朝の薄い光が差し込んでいる。女中部屋の、固い布団の感触。隣の床には、お春がまだ寝息を立てていた。
澄乃はゆっくりと体を起こした。夢の名残が、まだ肌の上に貼りついているようだった。頬——女が触れようとした、あの頬に、澄乃はそっと指を当てた。
冷たい。ただ、己の指の冷たさがあるだけだった。
胸の奥に、しかし確かに何かが残っていた。胸騒ぎとも、予感とも呼べる、名前のない重さが。
*
仕事は、身体を動かすには丁度よかった。
奉公二日目の澄乃には、まだ任される仕事の範囲は狭い。早朝の掃き掃除に始まり、朝餉の片付け、そして反物の整理の手伝い。お春の後ろをついて回りながら、澄乃は店の間取りと、それぞれの人の動きを目に焼き付けた。夢のことは、動いている間は意識の隅に押しやることができた。
午前の半ば、店の奥から声が上がった。
「おい、誰か。今朝の会合の資料はどこへ置いた」
柊一郎の声だった。澄乃はちらと顔を上げた。廊下の向こう、帳場の前に一郎が立っている。今日は和装ではなく、濃紺の背広を羽織っていた。西洋の装いは彼に馴染んでいるようで、しかし佇まいのどこかに日本家屋の直線が残っているようにも見えた。
番頭の善兵衛が慌てて飛んでくる。
「若旦那、確かに昨夜のうちにお机の上に——」
「ない。それと組合の申し合わせ覚書、先月分が一枚足りない」
善兵衛の顔が曇った。会合は今日の昼前。時刻まで、すでに間がなかった。
澄乃は掃き掃除の箒を持ったまま、しばし考えた。
昨日、反物の整理を手伝った際に、古い帳面や書付の束を仮置き棚に移したことを思い出した。柊屋の帳場は几帳面に整えられているが、仮置き棚だけは誰もがとりあえず書類を重ねていく場所になっている——お春がそう教えてくれた。奥蔵へ持ち込む前の書類が溜まりやすいのだと。
澄乃は静かに箒を壁に立て掛け、帳場の隅にある仮置き棚へ足を向けた。善兵衛と一郎がやり取りをしている間に、手早く束を繰る。三枚目、四枚目——あった。
「あの」
澄乃は声をかけた。二人がこちらを向く。澄乃は一枚の紙を差し出した。
「こちらでございましょうか。先月付けの申し合わせ覚書と思われますが」
一郎が二歩近づいて、澄乃の手から紙を取った。目を走らせて、眉が僅かに動いた。
「……そうだ、これだ」
「仮置き棚の下の方に紛れておりました。お運びの際に落ちたのかもしれません」
「お前が見つけたのか」
「はい」
一郎は澄乃を、今度はきちんと見た。昨日の帳場でのやり取りは会話とも言えないものだったし、その前も、澄乃は常に他の女中の後ろに控えていた。今この瞬間が、初めて——本当の意味で、向かい合った瞬間だったかもしれない。
一郎の目は涼しかった。感情が乗っているのかいないのか、澄乃には読めない。ただ、何かを測るような眼差しが、しばらく澄乃の上に留まった。
「名は」
「澄、と申します」
澄乃は姓を隠したまま答えた。一郎は短く頷いた。
「善兵衛、今日から帳場の仮置き棚には必ず日付を書いた紙を挟め。それから」
一郎は澄乃に向き直った。
「お前は字が読めるか」
澄乃は静かに答えた。「はい。仮名と漢字は通りに」
「では今後、仮置き棚の整理は澄に任せる。善兵衛、そのように」
それだけ言って、一郎は外套を手に取り、廊下を歩き去った。踵が板の間に落ちる音が、規則正しく遠ざかる。
善兵衛が澄乃の方を振り向いて、やや複雑な顔をした。
「……珍しいことだ。若旦那が女中に仕事を言いつけるなぞ」
お春が奥から顔を覗かせて、目を丸くしていた。澄乃は微かに息をついた。胸の中で、小さな何かが——灯ったと表現するには微かすぎる、しかし確かに温かい何かが——動いた気がした。
*
夜、布団に横になっても、澄乃はしばらく寝付けなかった。
天井の木目を目で辿りながら、頭の中に今日一日の断片が浮かぶ。一郎の手が資料を受け取った時の、一瞬の無言。あの涼しい目が、澄乃を「測った」瞬間。
認められたとは思わなかった。ただ、視界に入った。それだけのことだった。しかしそれで十分だと、澄乃は思った。蔵へたどり着くためには、この家の中に居場所が要る。根を下ろすように、少しずつ。
目を閉じると、あの夢の女の顔が戻ってきた。
緋色の打掛。燃えるような紅。そして——また会えた、という声。
澄乃は古い和歌を、口の中でだけ動かした。かつて祖母が教えてくれた、家に伝わる一首。
——結びおきし 縁の糸こそ 解けぬなれ 百夜の春を 待ちわびながら——
祖母はこの歌の作者を教えてくれなかった。ただ、大事にしておくようにと言った。その時は意味もよくわからなかった。
今は、わかる気がする。気がするだけで、まだ何もわかってはいないのだけれど。
澄乃は目を閉じた。
白い靄の夢が、また来るかもしれないと思った。来たなら今度こそ、女の名を聞こうと決めた。
しかし眠りは、今夜は静かだった。夢を見た記憶も残らないほど深く澄乃は沈み、朝になって初めて目を開けた時には、ただ胸の奥に昨日と同じ、名前のない重さだけが残っていた。
まだそこにある、と澄乃は思った。女は、まだそこにいる。
待っている——何かを。あるいは、誰かを。