廊下の端に打ち付けられた板の隙間から、土の匂いが滲んでくる。

 工事が入ってから三日が経った。柊屋の蔵の奥に口を開ける地下廻廊は、大工の棟梁が「こらもう百年は手が入っとらん」と首を振るほど荒れ果てていたが、危険な崩落箇所には柱が立ち、足元の石畳は砂を敷き直されて、ようやく人が踏み入れられる体裁になった。

 一郎から伝えられた時刻は、午後の日が傾きかける頃合い。

 澄乃は前夜、ほとんど眠れなかった。

 糸に素性を暴かれたあの昼の衝撃はまだ胸の底に沈んでいたが、それ以上に廻廊のことが頭を占めていた。壁に残されているかもしれない痕跡。百年前の誰かが残したかもしれない言葉。夢の中で朱乃がかすかに口を動かすたびに、澄乃は聞こうとして声を失い、目が覚めた。

 何度目かの夜明けに、澄乃は布団の上で膝を抱え、静かに和歌を口ずさんだ。

 春泥に沈みても——

 続きが出てこない。いつからそこで途切れているのか、自分でもわからない。ただ、続きがあることだけは確信していた。

 蔵の入り口に哲三が先に来ていた。長い巻き尺と帳面を小脇に抱え、提灯を手に提げた姿は、いかにも調査に浮き立っている様子だ。

「澄乃さん、ご機嫌よう。今日はいよいよですね」

 声が弾んでいる。澄乃は少し笑みをこぼした。

「哲三さんは楽しそうですこと」

「楽しいですとも。民俗学者の本懐というやつです。生きた呪いの現場を踏むのですから」

 呪い、という言葉は冗談めかされていたが、澄乃の胸の中では軽く響かなかった。

 一郎は遅れること半刻、蔵の扉を開けて現れた。いつもの紺地の羽織ではなく、動きやすい木綿の着物に着替えている。提灯の光の中でその顔を見た澄乃は、二日前の記憶が唐突に戻ってきて——奉公人の前で自分を庇った声、「柊屋に必要な人間」という言葉——思わず目を逸らした。

「準備はよいか」

 一郎の声は短く、いつも通り淡々としていた。澄乃は姿勢を正した。

「はい」

 三人は順に廊廊へ降りた。

 石段は十五段あった。哲三が声に出しながら数える。降り切ったところで空気が変わった。地上の晩春の気配が消え、年代物の石と土と、何か甘ったるいような——腐葉土とも違う、花が枯れる前の匂いにも似た——不思議な気配が満ちていた。

 足元に敷かれた砂は真新しく、それだけが現代のものだった。

 壁は切り出した石を積んだもので、表面に苔が張り付き、所々で土が滲み出ている。頭上は天井が低く、一郎は背が高いゆえに少し前傾みになって歩いた。提灯が三つ、揺れる。

 廊廊は真っ直ぐではなかった。緩く左へ曲がりながら続いており、十数歩進むごとに壁の様相が少しずつ変わった。

 哲三が壁面を検分しながら歩く。

「石の積み方が変わっています。こちらは新しい——といっても幕末頃でしょうか。奥に行けばもっと古い」

「どうしてわかるんですか」

「石の切り目と、漆喰の塗り方です。新しいほど丁寧に仕上げてある。古いものは荒々しい」

 一郎が先頭を歩き、哲三が壁を確認しながら続き、澄乃が最後尾を歩いた。

 澄乃は壁を見ながら歩いていた。提灯の光が石の肌を照らすたびに、何かを探している自分に気がついた。何を探しているのか、はっきりとはわからない。ただ、目が壁に吸い寄せられた。

 五十歩ほど進んだ頃、廊廊は一度広くなり、小さな空間が生まれた。かつては人が立ち止まる場所として設えられたのだろう、壁の一角が内側に引っ込んで、人一人がちょうど収まるほどの窪みになっている。

 哲三がそこに提灯を近づけた瞬間、澄乃の足が止まった。

「——これは」

 哲三の声が低くなった。

 窪みの壁面に、文字が刻まれていた。

 石に直接刻んだのではなく、何か硬いもので何度も何度も引いたような、深い線の集積だった。文字は縦に三行。細く、しかし確かな筆跡の震えが石に移ったかのような、追い詰められた強さと静けさが同居した文字だった。

 一郎が提灯を持つ手を高く掲げた。光が文字の影を深くする。

 澄乃は声が出なかった。

 文字は和歌だった。

 ——春泥に沈みても、誓いの花は咲く。血が尽きるまで、此の道に立つ。

 体の内側から何かが揺らいだ。

 揺らいだというより、共鳴した、という感覚の方が近かった。弦楽器の弦が鳴ると、近くに置かれた別の楽器の弦が震える——そういう種類の揺れだった。全身の細胞が一斉に何かを思い出そうとして、しかし記憶の形を取れないまま震えている。

「澄乃さん」

 哲三が振り返った。澄乃の顔を見て、眉を寄せた。

「顔色が悪い。大丈夫ですか」

「……大丈夫です」

 声が掠れた。澄乃は壁の文字から目を離せなかった。

 春泥に沈みても——

 それは、自分が幼い頃から口ずさんでいた歌の続きだった。

 前半しか知らなかった。いつ覚えたのかも定かではなく、誰から習ったわけでもなく、ただ気がつけば口をついて出る言葉として、ずっと胸の底に在った。

 その続きが、百年以上前の石壁に刻まれていた。

「読めますか」

 一郎が静かに聞いた。澄乃に向けた言葉だと、すぐにわかった。

「……はい」

 澄乃は震える息を吸い、声に出した。

「春泥に沈みても、誓いの花は咲く。血が尽きるまで、此の道に立つ」

 声を出すと、余計に体の奥が揺れた。

 哲三が帳面を開き、鉛筆を走らせた。手は動かしながら、声は低く真剣だった。

「血が尽きるまで此の道に立つ——誓いの言葉ですね。ただの恋歌ではない。何かに縛られた人間の言葉だ」

「縛られた、というより」

 澄乃は呟いた。

「自分から縛りに来た人の言葉、に聞こえます」

 一郎が澄乃を見た。その視線が提灯の明かりの外から来るようで、表情はよく見えなかった。

「前半をご存知だったのですか」

「……はい。いつからか、前の半分だけを知っていました。続きがあることは、わかっていたのですが」

 言葉が続かなかった。どう説明しても、理屈には収まらない。

 哲三が壁の文字の傍に屈み込み、文字の周囲を細かく検分した。

「刻み方が変わっています。一度ではない。何度も、おそらく違う時機に繰り返し、同じ文字を上書きするように刻んでいる。最初に誰かが刻んだものを、後から別の誰かが——もしくは同じ人物が——繰り返しなぞった」

「何のために」

「消えないように、でしょう」

 哲三の声は静かだった。

「あるいは、忘れないように」

 三人は沈黙した。

 廊廊の奥からは何も音がしなかった。しかし澄乃の耳の奥では、何かが鳴っていた。水の流れとも、糸が解けていく音とも違う。もっと古く、もっと深いところから来る音だった。

 朱乃、と澄乃は心の中で呼んだ。

 あなたが刻んだのですか。

 返事はなかった。ただ、廊廊の空気が、少しだけ密度を増したような気がした。

「奥に、まだ続きがあるかもしれません」

 一郎が言った。提灯を持ち直し、廊廊の奥を見据えた。

 澄乃は壁の文字を最後にもう一度見た。

 血が尽きるまで、此の道に立つ。

 誰かがそれだけの覚悟を以て、この石の壁に言葉を刻み込んだ。春泥の中に沈みながら、それでも咲くと言い切った花の名前を、澄乃はまだ知らなかった。

 知らなければならない、と思った。

 理由は説明できない。ただ、もし自分が此の道に立つ理由があるとすれば、それは宿縁などという言葉で包まれた曖昧なものではなく——あの石に刻まれた誰かの意志と、正面から向き合うことだ、と、澄乃の全身が教えていた。

 一郎の背が廊廊の先へ向かう。

 澄乃は一歩、踏み出した。

春泥の誓いと、百年眠る花嫁

30

春泥の歌の続き

宵待 紬子

2026-06-12

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第30話 春泥の歌の続き - 春泥の誓いと、百年眠る花嫁 | 福神漬出版